定年後の読書ノートより

ものの見方について、笠信太郎著、角川書店
イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出すという、有名な書き出しで始る本書を、始めて手にしたのは高校時代だった。「巧妙に書かれた反共書ではないか」。結局、途中で読むのを中断した。高校生にありがちな傲慢な青臭さだった。あれからすでに50年が過ぎた。

今度はゆっくりと最後まで読み、幾つかの箇所に赤線を引いた。著者は戦後いち早く、イギリス人、ドイツ人、フランス人、スイス人、ロシア人、そして日本人の「ものの見方」を、興味深く短評した。そして、その国民性の背景にあるものの見方から、日本に当時急激に広まってきたマルクス主義に如何に対処すべきかを、主に学生、青年層向けとして書きあげた。この本は、当時大ヒットした。

イギリス人は常に物事を多方面から眺め、多数の目を大切にし、そこに例え論理の糸が統一されていなくても、人間中心の思想は貫かれ、自分が正直理解出来ていない思想などをわかった様な顔をして主張するようなことなどしない。彼等は常に常識人である。

ドイツ人の得意とするところは「本質」を大事にすることだ。「本質」は目の前の現象の奥にある、論理体系であり、それこそが真実であると尊ぶ。本来は観念に過ぎないこの本質も、実在するものと取りがちになって、その本質が個々の現象とどう関係するかを説明することによって、物事の全体が掴まれるということになるし、またそれによって、物事が論理的であることが、完結すると考えられるのである。論理的に捕まれたものは真実であると考える傾向から、その論理的に掴まえられたものはそのまま真実として、血の通った人間の主観から離れて、独立してくる。

論理体系は統一的でなければならない。ドイツ人は表象や観念を重く見、その観念に絶対的な力を認めるということは、勢い、実際にはそれから切り離せない人間の人格的主体的な役割を、軽視することになりがちになる。観念が絶対化されると、その観念がしばしば人間を殺すのである。

ドイツ人の考え方は、いわば写真のような精密さで、明暗の細かい緻密な変化で現実を捉えようとするのであるが、そこには、薄明の世界の美しさはあっても、ゆたかな色彩の悦びはばい。色のない現実!それがドイツ人の世界であろう。

イギリス人は、教理の一部を適当に自分の中に取り入れて、そこに幾つかの矛盾があっても平気だが、ドイツ人は矛盾を許さず、精密な論理をもってそれが現代風に構築されていれば、それを修正することなどしない。ドイツ人とロシア人は近似しており、日本のインテリ層もその類に属する。

明治以降、日本人は、数々の教育によって、外国からの様々な文化を十分な咀嚼もせずに受け入れてきた。日本に今必要なものは、ものを見、ものを考える「方式」が日本人の地に足が付いた特色として確立し、日本のデモクラシーを国民総意で造りあげることだ。

イギリス人は話し合うデモクラシーを大切にし、フランス人は激情的なデモクラシーを大切にしてきた。日本人はどんなデモクラシーを造りあげるのか。

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