定年後の読書ノートより

新しいヘーゲル、長谷川 宏著、講談社現代新書
弁証法とは何か?ひまわりの一生をヘーゲルはこう書く。種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれに戻ってきて生命としてのまとまりを得ると。

もってまわった言い方だ。何故なら否定の動きを是非とも強調したいからだ。対立や変化が運動の原動力になると考えるのが弁証法の基本である。もうひとつ、種から出発した生命がふたたび種にもどるという形でまとまりを生じることが、これにおとらず重要な弁証法である。まとまりを持つ事を弁証法は要求する。これが弁証法の総体性ないし完結性ということである。

ヘーゲルの弁証法は、生命の弁証法より社会の弁証法が、より複雑で具体的である。ヘーゲルが身をもって生きる西洋近代社会を大きく視野におさめて、ヘーゲルの弁証法的な社会観は形成される。個と共同体が徹底して対立し矛盾するのがヘーゲルの弁証法的な社会像である。近代社会を対立と矛盾のるつぼと化し、容易にまとまりのつかぬ混沌体としているのは、自由にして自立したゆるぎない個人の存在である。ヨーロッパ近代において、明確にその姿を現す自由で自立した個人は、その内面からすれば「われ思う、ゆえに我あり」という形で自分の思想と存在を確信する個人であり、社会に対しては「人は自由かつ権利において平等なものとして出生しかつ生存する」という形で、各々の人権を主張する個人である。

この社会観を、同じく近代社会といっても、異質な面を多く持つ日本社会に生きている私達が理解しようとしても、うまくヘーゲルの社会像を理解するのはむずかしい。日本の社会は、自分が人に合わせ、人が自分に会わせる、というかたちで人間関係が成立つ社会である。合わせねばならないし、合わせる事が可能だ、という前提で社会が成立っている。人と人とがうまく合うところに成立つのが、「和」であり、社会は和が大切だと考える。ヘーゲルの弁証法の「否定」と「総体性」のうち、「総体性」のほうに日本の社会は過度の思いいれをする。

しかしヘーゲルの弁証法では、総体性の成立が危うくなるほどに否定の力が強調されねばならないのだ個と共同体が徹底して対立し、矛盾するのがヘーゲルの弁証法的な社会像なのだ。そして、その社会像は、まさしく近代ヨーロッパ社会の現実から引き出された像であった。ヘーゲルの社会的な生活実感は、合わせることや「和」を基軸とする私たちの生活実感とは、まったくちがう次元にあった。

そういう社会観は、私達の社会生活の実感からすると、受け入れやすいものではない。思えば西洋の近代化と日本の近代化の質の違いは、社会のなりかたの違いまで及んでいるのである。ヘーゲルの弁証法は、和気あいあいの雰囲気とは違う。西洋の対話とは、明確な対立と、対立ゆえの緊張が存在し、相手との間で一致点を見出すのが対話ではなく、相違点を明確な表現にもたらし、どちらが理にかなっているかを問うのが対話の基本である。

相手との対立点をきわだたせることに力をこめるのが、西洋の対話の流儀だとすれば、その流儀を哲学の方法として応用しようとする弁証法がまとまりや和のみを強調するものであるはずがない。ヘーゲルの弁証法とは、否定と対立と矛盾の方法である。この哲学の方法が有効であるとすれば、その有効性を支えるものは、哲学の対象とする現実世界が、否定と矛盾に満ち満ちているという事実にほかならない。

ここをクリックすれば、読書ノートの目録に戻れます。