定年後の読書ノートより
ある老婆の思い出、渡辺一夫著、ちくま日本文学全集58
お末の思い出は本郷天神様参りから始まっている。幼い僕にとって、天神様へのお参りの中でお末の打ち明け話が、なぜかぼんやりと子供心に残る。小学時代のお末は愚痴っぽく、じめじめしていた。僕が第1高等学校を受験するとき、お末は天神様に日参してくれた。ある夜、僕が書斎で本を読んでいると、廊下の暗がりに突然お末が現れ、口をすぼめておほほと笑い「お坊ちゃまも、立派な高等学校の学生さんにおなりだから、もうお坊ちゃまとは呼ばずに、若旦那とお呼びしましょうかのし」。お末は、しばらく暗い廊下にうずくまっていた。

僕が大学生になった頃も、お末は、近くの母の実家に厄介になっていたが、お末は老衰し、傾きかけた母の実家には、荷厄介になり始めていた。

ある晩、風呂に入っていた。突然ごろごろと戸が開いて、お末が転げこむように入ってきた。「若旦那、お体にちょっと触れさせて下さいな」。気味悪かった。ひたすら脱出の方法を考えた。その後、自分は意識してお末を避けた。お末は体が衰えるにつれ、自分が他人の荷厄介になっていることが、事ごこに感ぜられ、何かにすがりつきたい気持ちでいっぱいだったに違いない。そんなお末の気持ちを汲んでやることは出来なかった、お末はほどなくして新潟に帰った。お末は老衰に加えて胃がんになった。僕は母と妻の3人で新潟まで見舞いに行った。「こんな姿で恥かしい」とお末は泣き出した。母も、妻も、僕も泣いた。

それから間もなくお末は死んだ。馬齢を重ね、自分はお末の淋しさが判る年頃になった。懸命に生き、寂しく死んだお末に、もう1度会い、どこかの温泉にでも案内してやれればと、しみじみ思う。そして、お末に背中でも流してもらいたいと思う。

いい作品だ。自分自身が、この年頃になって、この作品の文字には書かれていない作者の心境がこちらにも伝わってきて、ほのぼのとした人間の暖かみが、生活底辺の小さな原点からどんどんと上に上がって行き、人生の哲学と倫理にまで昇華していくけむりみたいなものを見たように思う。渡辺一夫先生の暖かい寛容の哲学はここから出発していると思う。

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