定年後の読書ノートより

三四郎、夏目漱石、漱石全集、岩波書店
小説「三四郎」は所詮東京帝国大学の世界である。人民の日常からはほど遠く、人民に手の届く世界ではない。確かに漱石が描く人物や会話には都会人の洗練された雰囲気が映し出され面白いが、これすらも身近に感ずる世界ではない。当然ながら松本清澄や、石川啄木は漱石の世界からずっと遠くにいることを我々は忘れてはならない。

「ストレイシープ」と謎の言葉を言い残す野々宮美禰子は、新時代の女性。しかし「虞美人草」の魔女、藤尾の方がはるかに判り易い。藤尾曰く「男なんて操り人形のようなもの。我が小指の先で、意の如く焦らしたり、ドギマギさせれば、やがて必ずこちらの意に従ってついてくる」。三四郎は、同じ布団で1夜を過ごした旅の女や英語を自由に操る才女野々宮美禰子の様々な仕種に焦らされ、ドギマギさせられ、結局最後には「われは我がとがを知る。我が罪は常に我が前にあり」との述懐を受け、始めて自分の初心さと相手の女性にこそ大人の女の勝利が生きていることを悟り、読者は生真面目に振り迷わされた田舎青年三四郎の素朴さが、またこの小説を魅力あるものにしていることに気づく。

本郷三四郎池が何度も出てくる。当時駒場に学んでいた息子研三曰く「お父さん、三四郎池が本郷に在るごとく、駒場に一二郎池が在ること知ってる」とある日尋ねてきた。勿論自分にとっても初耳だ。その後駒場を尋ねた際一二郎池なるものを探してみた。なるほど、旧制一高駒場寮食堂うらに意外に大きな池がある。これを東大生は一二郎池と呼ぶ。この池を見た者は、浪人するとの言い伝えが今も生きていて。その為か、多くの学生は駒場に一二郎池があることをほとんど知らない。

小説の中では、大学入学後の三四郎が始めて、池の渕でたたずみ、野々宮美禰子と出会う情景の直前、三四郎はこんなことを考えている。

「野々宮先生は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。要するにこの静かな空気を呼吸するから、自らああいう気分にもなれるのだろう。自分も気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようから」。

こんな三四郎の思索を、毎日失業におびえ、貧困に苦しみ、家族の不幸を必死になって防御しようとする世の人民大衆の誰に可能だろうか。夏目漱石の描く東京帝国大学の世界とは、所詮人々の近くには存在し得ない世界であり、誰もが望んでも手の届く世界では有り得ない。残念ながら我々は従って夏目漱石に没入している読書人をうらやましいとは思っても、身近の仲間としては実感出来ないのである。

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