定年後の読書ノートより

疎外された労働―経済学・哲学草稿より―、マルクス著、城塚登訳、岩波文庫
若きマルクスは、パリ時代の1844年、9冊の哲学・経済学ノートを思索書「経済学・哲学草稿」にまとめた。この思索書に書かれている基本テーマはその後資本論に結晶していく。ここでは、「疎外された労働」と題された、労働と私有財産について、強制された労働は、労働者の幸福感を破壊しているとの関連で、労働こそ類的存在の活動であるとする人間とは何かというマルクスの考え方を知る論文として理解したい。
  • ヨーロッパブルジョア経済学である国民経済学から明確になったことは、国民経済学は物質的過程を諸公式として、法則としてとらえるが、何故か概念的に把握しようとはしない。すなわち私有財産の本質から生まれてくる問題を確証しないで、すなわち必然的発展を捉えないで、偶然的事実としてだけとらえ、すべてを人間の所有欲に帰し、全ての事実を競争の視点からのみ捉えようとしている。
  • われわれは、現に存在する事実から出発する。ここで最大の問題点は労働すればするほど、商品をより多く作れば作るほど、労働者の価値低下がひどくなる。しかも自分自身を商品として生産するので、自分自身の価値低下を深刻化する。労働の生産物は、労働者から独立した力として、労働者に対立する。労働者が骨身を削れば削るほど、生産物は疎遠な存在となり、労働者に対立する自立的な力をなる。
  • 労働者が彼の生産物の中で外化するということは、彼が対象に付与した生命が、彼に対して敵対的に対立するという意味する。しかし国民経済学は労働の本質における疎外を隠蔽している。労働の外化とは、労働が労働者の本質に属していないので、そのため自分の労働において、幸福と感ぜずに不幸と感じ、肉体と精神の消耗と頽廃を感ずることである。だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、労働の中では自己の外にあると感ずる。労働そのものが他人の労働、強制された労働なるが故に、彼を苦しめる労働となる。
  • 労働していないとき彼は家庭にいるように平安を感じ、労働している時、彼は苦痛を感ずる。これは、労働者が所有者に隷属している労働により私有財産が生まれる。<疎外された労働>によって、人間は彼の生命活動、類的存在から疎外され、私有財産が生まれる。労働者の労働は他人に隷属しており、労働者自身の喪失である。労働者は、食うこと、飲むこと、生むこと、着ることに人間的な諸機能を、自分の自発的行動を感ずるのみである。
  • 人間は類的存在である。自由な意識的活動(=労働)が人間の類的性格である。ところが、資本主義では、その労働が、この生活手段としてだけ現われる。それゆえ、私的所有や隷属状態からの社会の解放は労働者の解放によるしかないと同時に、この解放の中にこそ一般的人間的解放が含まれている。
  • 動物はその生命活動と直接的に一つである。疎外された労働は、人間の生命活動を、かれの生存の一手段に逆転化している。疎外された労働は、人間から彼の生産の対象を奪いとることによって、人間から彼の類的生活を、彼の現実的な類的対象性を奪いとり、そして動物に対する人間の長所を、人間の非有機的身体すなわち自然が彼から取りさられるという短所へと変えてしまうのである。
  • 人間の類的存在が人間から疎外されているという命題は、ある人間が他の人間から、またこれらの各人が人間的本質から疎外されているということを意味している。人間の疎外、一般に人間が自分自身にたいしてもつ一切の関係は、人間が他の人間に対してもつ関係において、始めて実現され、表現される。
  • 労働者の活動が彼にとって苦しみであるならば、その活動は他の人間にとって享受であり、他の人間の喜びでなければならない。彼には疎遠で敵対的で力づよい人間がこの対象の主人であるようにふるまっている。彼は生産をしない人間の、その生産を生産物に対する支配を生み出す。彼が彼自身の活動を自己から疎外するように、彼は疎遠な他人にそのひと自身のものでない活動を獲得させる。
  • 私有財産は、外化された労働、すなわち外化された人間、疎外された労働、疎外された生活、疎外された人間という概念から、明らかにされる。私有財産は外化された労働の一帰結に他ならない。私有財産は外化された労働の産物であり、他方では、それは労働がそれによって外化される手段であり、この外化の実現であるということができる。
  • 労働者の解放のなかに一般的人間的な解放がふくまれ、一般的人間的な解放が労働者の解放のなかに含まれる。これは生産の労働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包されており、またすべての隷属関係は、この関係のたんなる変形であり帰結にすぎない。

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