定年後の読書ノートより
スペイン戦争、斎藤 孝・本川誠二著、岩波世界歴史講座28
1936年7月フランコ反乱軍はモロッコ・カディス・北部ガリシアを押さえ、共和国軍側はマドリード防衛に集中した。1939年3月2年半に及ぶ反ファシズム統一戦線(人民戦線)の抵抗も空しく、マドリードは降伏、20万人以上の投獄、その大半は銃殺された。

大地主、教会側のファシズム勢力と共産党、社会党、共和党側の人民戦線との戦いは1936年2月、国内選挙戦で勝利した第2共和国誕生から始る。ファシズム側を支援したドイツ・イタリアの公然たる軍事援助。しかし英国・フランス・アメリカ側は不干渉政策の名のもとに、人民戦線側に武器・弾薬援助を拒否した。

1936年9月には、ブルジョア共和国政府から人民戦線を代表するラルゴ・カバリエロ内閣となり、革命的民主的軍隊がつくられ、国家機構は民主的に変革され、ファシスト軍に頑強に抵抗した。

11月には国際義勇軍が市民の熱狂的な歓迎を受けてマドリードに登場。国際義勇軍兵士の恋を描いた、ヘミングウエイ「誰が為に鐘が鳴る」は、実際に銃を持って闘った彼の自伝でもある。統一戦線政府は民主主義的な革命権力に転化した。

しかし、ドイツ空軍による爆撃と機銃掃射は惨烈を極めた。バスクの町、ゲルニカにおけるドイツ攻撃に怒り、ピカソは、名作「ゲルニカの虐殺」を描く。

1938年ナチスドイツのオーストリア占領を黙過したイギリス・フランスの宥和政策はその後も依然として続いた。9月ミュンヘン会議後、スターリンはどうしたことか、国際義勇軍の引揚げを決意、ネグリン首相は講和をフランコ側に呼び掛けた。国内の右翼勢力の中には妥協的政策もあり、無政府主義者の分裂活動もあり、人民政府軍は次第に劣勢となり、1939年3月スペインはフランコファシスト独裁勝利となり、ネグリンはフランスへ亡命した。

スペインの民主主義革命を推進したのは、中産階級左派であった。スペインでは幅広く人民の要求を結集した新しい民主主義であり、スペインの中産階級の問題を最も現実的に認識していたのは、スペイン共産党であった。

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