定年後の読書ノートより
スターリン時代、東大助教授菊池昌典著、岩波世界歴史28―現代5―
1934年1月ソ連共産党第17回大会にて、スターリンは第1次5ヵ年計画の勝利を宣言した。しかし17回大会で選出された中央委員139名中、実に98名は第18回大会までに銃殺される運命となる。

当時党内には急激な党員増加に対し、粛党気運が高まっていた。折しも1934年12月スターリン後継者と見なされていたキーロフが暗殺され、潜行する「人民の敵」大粛清をスローガンとする人身弾圧、言論、思想抑圧がスターリンの手によって始められた。

全国に「人民の敵」摘発の厳戒体制が布かれ、反革命陰謀事件=テロル事件=再審なし=即刻死刑がスターリン発議で指示決定された。1936年12月スターリン憲法が制定、緊張した国際情勢下、一国社会主義の正当性を主張するスターリンは、国内では暴力的抑圧政策を進めた。1936年8月にはソ連陸軍を背負う8将官全員の秘密裁判、即刻全員銃殺をはじめ、ブハーリン等ロシア革命の元老全員を粛清裁判による銃殺または自殺に追い込んだ。

粛清裁判での自白は強制的なものであり、逮捕をまぬがれた国家要人も次々と自殺した。スターリン直轄の内務警察機関の逮捕の口実は、拷問によって獲得された自白を唯一の証拠とした。「人民の敵」容疑者は、密告者の通報によって逮捕され、秘密裁判後銃殺された。こうした粛清を1937年9月НКЬД長官となったエジョフの名から、ウジョフシチーナとも呼ぶ。

スターリンは危険な「人民の敵」は、党員証をひけらかし、巧妙に破壊活動をすると指摘、階級闘争激化論を打ち出した。党の指導こそが党内民主主義を破壊していると抗議または批判した人々は「人民の敵」として粛清された。スターリンの側にたつことを立証する為には、進んで「人民の敵」摘発に協力しなければならず、自らの命を護ろうとすれば、他人の嫌疑を密告する外なかった。「人民の敵」容疑者の逮捕は、血縁関係全員の逮捕が一般化され、血縁関係全員の銃殺が広く行われた。

赤軍幹部将校の大量粛清で、ナチスのソ連侵入に対し、赤軍は弱体下にあり、敗北を重ねなければならなかったし、独ソ不可侵条約締結後は、コミンテルン特にドイツ共産主義者へのスターリンの迫害が強化され、多くの亡命者はあらためてソ連から再亡命せねば自己の生命は危険にさらされた。

1937年、逮捕拷問の批判が高まった際も、スターリンは内務人民委員部に「今後もそれ相応の拷問は続けなければならない」と指示しているのみか、1939年第18回大会では、粛清はソビエット組織を強化させたと外国新聞記者に強調している。その後、スターリンは、粛清の行き過ぎは下部組織に原因があったとし、「人民の敵」摘発に熱中した党員こそ「人民の敵」であるとし、下部組織に粛清の犯罪責任を負わせ、次々と粛清担当者を逆粛清していった。

スターリンはこうした粛清に何等の反省も責任も公式表明していないばかりか、この粛清は戦後も再開され、1949年にはベズネセンスキー等が逮捕粛清され、1953年には9名の医師団陰謀事件が捏造されたが、1953年3月スターリンの死去によって、ユダヤ人医師の安全は保証された。1956年第20回党大会にてフルシュチョフはスターリンの大粛清は個人崇拝の結果引き起こされた必然的結果であるとし、1961年22回党大会で、スターリン批判は公然化された。

スターリン独裁に関し、自分は民主主義の確立していない国に、社会主義は、権力者に権力を容易に握られやすい危険があると考え、民主主義確立こそ、我々の取り組むべき最大の課題であると考えています。逆に言えば、民主主義が確立して居なかったロシアには、社会主義は早急し過ぎたと考えています。如何でしょうか。

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