定年後の読書ノートより
日本の産業遺産;産業考古学研究:

幕末・明治期の輸入綿紡績機械関係の産業遺物、玉川寛治、玉川大学出版部

産業がどのように起ち上がるか、その初期曲線にこそ最大の関心があるとかねがね述べておられる玉川氏の、1866年から40年間の日本綿紡績輸入紡機調査論文。

日本の始祖3紡績とは、鹿児島紡績所(1870年プラット社)、堺紡績所(1870年)ヒギンス社、鹿島紡績所(1873年ヒギンス社)の3紡績所、続いて政府の力でスタートした官営愛知紡績所(1878年国産コピー機)十基紡、国産十基紡、やがて本格的な民間資本による始めての大紡績として今日の東洋紡績前身である1884年大阪紡績株式会社が1万錘の規模でスタートする

繊維長の短い日本綿、中国綿では緯糸16番手までが限度であったが、インド綿、アメリカ綿の原綿を使用するようになって、42番の細番手紡出が可能となる。やがてイギリス製綿糸と中国市場で競う為、エジプト綿を使用して60番の細番手も紡出可能となる。

鹿児島紡績所「尚古集成館」では当時のローラカードの外、機械配置図や当時の紡出糸が見られる。その他堺紡績所の版画、鹿島紡績所の木版画、愛知紡績所の紡績工場平面図、島田紡績所の建物配置図や糸、下野紡績所の機械配置図、紡績機械の写真等が当時の貴重な産業遺産として現在も保管されている。また博物館明示村には国の重要文化財に指定された1896年製プラット社のフラットカードの外、練条機、始紡機、リング精紡機等が展示され、クラボウ記念館にはクライトンオープナー、日本綿業倶楽部には手動式フライヤ精紡機が展示されている。

日本資本主義の発展に対し製糸業とともに大きな役割を果たてきた綿紡紡は、盛時1200万錘を越す大規模を誇ったが、1960年以降斜陽化はますます深刻化し、今や急激な規模の縮小、工場閉鎖が続いている。しかし、我が国の綿紡績技術発達の歴史を調査し、保存する意義は大きく、このことをもっと多くの方々に知って頂きたい。

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