定年後の読書ノートより
戦争と平和(第3巻第1部)、トルストイ著、中村白葉訳、トルストイ全集
中公“世界の歴史10フランス革命とナポレオン”では、こんな書き出し。

ナポレオンのロシア侵入、この戦争ならびにロシア国民におよぼした影響について、私たちにいちばんはっきりと、しかも具象的に教えてくれるものは、トルストイの小説「戦争と平和」におよぶものはない。その一読を是非おすすめしたい、とあって、

1811年の終りごろから、西ヨーロッパ諸国の異常な武装と戦闘力の集中が始った。1812年には、この戦闘力、すなわち何百万という人々が西から東へとロシアの国境を目ざして進んだ。ロシアの戦闘力も、1811年以来、おなじくその方向へ索引されていた。6月12日、西ヨーロッパの戦闘力はロシアの国境を越えて、やがて戦争が始った。

ナポレオンがスペインの膠着状態にもかかわらず、プロシアとオーストリアに補助軍団を出すことを強制することによってポーランドに集中しえた兵数はおよそ60万。それは歴史最大の軍勢で、この記録は第1次大戦まで破られることがなかった。一方、アレクサンドル皇帝は。開戦の年の4月、5月に、スエーデンおよびトルコと同盟条約を結んだ。スエーデンの王子ベルナドッドは、かってナポレオンの部将であったが、いまや国の利益のため、生みの国フランスと対立することになった。

この外交的成功によって、ロシアは国軍の全てを対仏戦線に集中することができた。にもかかわらず、その総数16万にすぎない。しかもロシア軍はバークレー・ド・トリーとバクラチオンの2軍団からなり、その司令官は相互に反目をしつづけていた。ナポレオンは、敵の主力を集中せしめ、これを一挙に撃破することを希望した。しかしロシア軍は、戦略というよりは、むしろ兵数のあまりの格差のため、決戦を避けることを余儀なくされ、退却に退却をかさねた。

結果として、それはロシアに有利であったが、最初からの計画ではけっしてなかった。皇帝も国民も退却には不満だったのである。7月はじめの豪雨、8月の炎熱に苦しめられつつフランス軍は進軍し、スモレンスクでの決戦を期待したが、8月18日、無抵抗のうちに同市を占領してみると、町は灰塵に帰していた。ロシア軍は撤退を確実にするため、聖都にみずから火を放ったのである。この歴史と、ストーリーは重なりいよいよ盛り上っていく。

戦場にあるナターシャの兄、ロストフ家のニコライも軽騎兵として活躍しゲオルギイ十字勲章を受ける。ナターシャとの婚約を破棄したアンドレイ公爵は、バルクライ将軍参謀として皇帝近くにあり作戦に交錯する各国戦略家空転する動きを注視。ピエールはナターシャの愛を身に近く実感しながらも自制してナターシャから遠ざかっていようと決意する。ナポレオンはモスクワに迫ってくる。

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