定年後の読書ノートより
人生論(柳田謙十郎著作集第8巻)、柳田謙十郎著、創文社
670頁に及ぶこの著作集には、かって高校1年生の時、衝撃的な印象で読んだ「日本の良心はいかにあるべきか」「働くものの人生観」「現代の倫理」等6論文が収められている。

思えば我が人生、もし高校時代にこれ等の論文に出会っていなかったら、また現在と随分かけ離れた生涯を過ごしてきたことだろう。12歳で父を亡くし、貧しさの中から如何に脱出すべきか、悩み苦しみ必死で勉めた我が青春時代、自分は柳田謙十郎氏を通じてマルクス主義に始めて出会い、目を開かれた。

その後、氏の論ずる方向を正しいと信じ、63年間を過ごしてきた。この度、トルストイの「戦争と平和」に挑戦する機会に及び、自分は並行してこの670頁に及ぶ柳田氏の大論文集も毎晩再読を続け、人生とは何かを考え続けてきた。

柳田氏の論理は、どの論文も一貫している。人は幸福を求めて生きている。しかし、この世は階級社会だ。倫理的にいくら誠実であっても、支配階級の支配は、想像以上に巧妙であり残酷である。従って我々は闘いの決意で、人生を歩み出さない限り、幸福は得られない。氏はこの定説を繰り返し、結論としてマルクス主義こそ階級社会を覆す唯一の解放思想であり、この旗の下に良心を大切にする労働者よ集まれと呼び掛ける。

氏がこの本を書いて50年過ぎた。今ではもうこうした本そのものが書店の本棚から消え、図書館にも置いてない。今の若い人達は人生をどう把握しているのか、自分は詳しく知ることは出来ない。ただ、TVなどで高校生の服装、仕種を通じて知る限り、彼等の瞳にはかって我々が必死で求めた貧しさからの解放の意識はまったく伺われない。

しかし、当時の我々は真剣に考えていた。貧しさからの解放はマルクス主義の旗の下にしかあり得ないと信じていた。他の如何なる主張も、マルクスの真理を決して乗越えられないと信じて生きてきた。63歳になった今、残りわずかな人生をもう一度見渡すつもりで、柳田謙十郎氏を読み返した。トルストイの「戦争と平和」と並行しながら、読み返した。

込み合った電車の中で、時々どこからともなく「何故貴方は座っているのですか。起ちなさい」というするどい視線を感ずることがある。この本を読んでいると、この視線は明確な言葉になって耳につく。しかも何度も何度も同じ言葉が耳元で繰り返される。そして、あまりにも、同じ論法が繰り返されると、やがて、例え正しいと信じていても、いささか参ってしまう。そして「しかし」と言いたくなる。

例えばこんな思いを柳田氏はなんと反論されるのか。

人間は子孫保存の本能を持つ。従って最愛の異性と性を求め合うのは当然だと主張する。愛の無い結婚など罪悪だと主張する。愛の無いセックスは罪悪だと主張する。もしこんな論理が真理だとして、世の中大手を振ってまかり通ったとしたら、なんと多くの悲劇的な性があちこちで起きることだろうか。

同じ論理である。支配階級を倒すのは正義である。革命こそが正義である。その為の犠牲、それは正義に殉じた永遠の英雄的名誉である。こうした呼び掛けは何度も何度も柳田氏は彼の著作の中で書かれている。

しかし、柳田氏の単純にして、明快なこの論法は本当に正解なのだろうか。

資本主義は崩壊するかも知れない。崩壊させなければならないのかも知れない。しかし、大切なのは、社会体制を覆すことではないはずだ。人間が幸福になるには、人々の社会にきちんとしたシステムが確立されていくことだ。

キチントしたシステムとは何か。それは人類の長い歴史の中から打立ててきた民主主義そのものではないか。民主主義の基礎が確立してこそ、社会体制変革の意味は生まれてくる。何故民主主義確立こそが重要だと先ず主張しなかったのか。

それは、愛とセックスの問題に置き換えるとこういうことになる。確かに愛あるセックスが人間の求めるものだ。しかし同時に人間は、長い歴史の中で家族制度という理想的なシステムを確立してきた。家族制度こそ、人々は幸福の主要なシステムであると信じている。家族制度を無視した、セックスの解放にどうして人間の幸福があり得ようか。

すなわち民主主義の確立をなおざりにして、いくら資本主義の崩壊だけを唱えても、それは解決の得られない迷路に人々を迷いこませる結果に終らないか。

人の人生はそんなに長くはない。大切なことは、あれこれと迷わされては時間が無駄になってしまう心配が常にある。何故、柳田氏は人々の幸福は民主主義に始るのだという判りやすい論理を展開してくれなかったのだろうか。

ソ連は崩壊した。そこで行ななわれていたシステムは人類にとって必ずしも理想的なシステムではなかった。多くの人々が独裁政治の悲劇の下で殺された。多くの人生が、独裁政治の横暴下で無残に狂わされてしまった。もし民主主義がもっと社会主義確立の過程で重要視されていたならば、幾つかの悲劇は避けられたはずだ。

自分はトルストイに接し、柳田氏は必ずしも完璧ではなかったと言いきりたい。それどころか、「起ちなさい、起ちなさい」と鋭い声を何度も耳元で掛け続ける氏の論法に大きな疑問を感じている。

私は柳田氏によって、マルクス主義入門のご指導を受けたと感謝している。しかし、氏の作品は、50年後の今日読み返してみて、さらにもう1歩、具体性が足りないことを発見する。この致命傷は、その後の社会主義思想の発展の中で、幾つかの現実問題として悲劇となって現れた。こうした歴史的経過から、現在の日本共産党の幾つかの主張の中には、柳田氏が飛び越してしまった大切な幾つかのステップ、例えば民主主義の確立こそが大切だという主張も、今でははっきりと揚げられている。しかし、例え現在の党が正しい思想展開をしているとしても、柳田氏の著作によって青春を目覚めてきた我々は、この柳田氏の論法の致命的な誤りはキチント克服しておかないと、大きな失敗に再度直面することにもなり兼ねないと思っている。

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