定年後の読書ノートより
職業としての編集者、吉野源三郎著、岩波新書
以前読んだ時に印象に残ったのは、三木清氏葬儀お終夜の席で勢い込む元闘士を見て、大内兵衛氏、吉野源三郎氏にぼつりと語った言葉。「吉野君、こんどの雑誌(世界)は、あまり威勢のいいものにしないようにしようじゃないか。調子の高いラディカルなものばかり並べないで、僕くらいの年輩の者が書いてもおかしくない、落着いたものにした方がいい。それでいて、何年かたってみると、戦後の日本の進歩や思潮の本流がきちんと辿れるようにするんだなあ」と。この述懐に学者の持つ知識の無言の重さを垣間みた印象だった。

今回は吉野源三郎氏の「歴史としての戦後民主主義」を詳細に読み直した。

民主主義とは新しい思想ではないし、新鮮な制度でもない。しかし日本人として、歴史的現実として民主主義を我が制度と出来たのはまだ戦後からである。民主主義とは歴史的な運動である。抑圧に反抗して、制度を確立してきた運動である。

戦後民主主義とはway of lifeのことだ。進歩的思想の持ち主が家庭では封建的なオヤジであるのは民主主義としてはway of lifeが未熟だ。戦後民主主義はあの太平洋戦争で何百万の犠牲をはらってやっと実現出来たものである。しかし経済の復興、大衆社会現象が恐ろしい勢いで弥漫し、保守政権が安定し、革新勢力が限界にきている日本では民主主義に対して、幻滅の感情がこめられ、デスパレートな否定的気分が広がっている。

ここには心理的なものをもう一度考える必要がある。

革命の成功によって、階級的対立を解決したとされるソ連の学生が、最近使命感に燃える中国留学生を疎んずるようになってきたと聞く。革命的情熱を無くし、生活を楽しむ人間がそこにある。日本に民主主義が定着すればするほど、ますます何もかも当たり前という気分になってくる。かってのあの新しい憲法を持った感動は遠のき、自由は当たり前とする心理には重大な落とし穴がある。落とし穴とは歴史的感覚の欠如である。「合理的な考え方で批評するだけでは、絶対に歴史的現実と対決することは出来ないし、それは現実のまえに他愛なく敗北するほかない。

歴史的感覚の欠如により、心理的落とし穴に落ち込むことをみずから注意するならば、歴史の理解の中に、否定の必然さを見つけ出す努力が必要だ。」民主主義とは近代合理主義の精神であり、実現されれば、なにものも至極当たり前のことばかりであり、そこには民主主義実現までの努力、闘争は見えなくなってしまう。

しかし歴史の歩みは重い。人類の歴史は長い。戦後民主主義について、たとえばプロレタリア・デモクラシーとブルジョア・デモクラシーの違い、その思想的深化について、我々はあまりにも努力が足りなかったのではないか。ここに民主主義に対する幻滅感の問題も隠されているのではないか。

日本の戦後民主主義は、まだ歴史は浅い。私達の努力なしには、獲得した自由もどのように制限され、危うくされるか知れないと思います。ワイマール憲法下のドイツでナチスが台頭したのは、そう遠い記憶ではありません。

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