定年後の読書ノートより
蚕の村の洋行日記―上州蚕種業者・明治初年のヨーロッパ体験、丑木幸夫、平凡社
書き始めが気張っている。「日本の近代化については戦前の講座派・労農派の論争以来、沢山の研究があります」。この書き始めにふさわしく、上州豪農が、明治初年売込商を経ずして蚕種紙を直接イタリアに出かけ現地販売していく洋行体験の日記、書簡、紀行記の原典解読セミナー。生産者直接販売に伴うリスク、勿論外国語も判らず、見たこともないヨーロッパに出かけていく豪商達の積極的商魂と勇気には先ず驚嘆する。

彼等はヨーロッパの機械工業や文明にふれて、帰国後キリスト教に帰依する内面的感化を受けて帰ってくる。妻に送った手紙には、「自分は封建的な亭主関白であったことを反省する、これからはあなたを大切にする。子供達は将来外国語の勉強をさせてやりたい」と書く。帰国後彼等は積極的に村の近代化にも務めていく。文字通り明治維新は講座派主張の如く、ブルジョア革命だったのか。

しかし豪農達の自主的な村営改革も日清・日露戦争まで。やがて明治政府は、天皇の軍隊を全面に投入し脱亜入欧が進む。矢張り労農派の主張する絶対主義的明治維新の性格付けが正しいのか。この本にはもう一人、やはり蚕種紙を直接アメリカに売込もうと、渡米し、帰化した新井領一郎の手紙原典解読がある。彼は裸一貫から蚕種商売を進めたが、近代的商人の倫理を守り、誠意、誠実に徹し、顧客を次第に増やしていき、やがてアメリカに骨を埋める。その孫はライシャワー夫人ハルさん。

蚕種については、過日購入した「須坂の製糸業」に詳しくその歴史が記述されている。

1859年横浜開港によって生糸は自由輸出となったが、蚕種は禁止された。その後1865年に、横浜売込商らの輸出願いが認められ、蚕種の輸出が急増した。これはヨーロッパで微粒子病という蚕の伝染病が流行し、蚕種が不足したからである。1枚10銭の蚕種紙は10円で売れた。蚕種好況は粗製濫造となり、明治7年には44万枚の売れ残りが明治政府の手によって焼却された。一時は300万枚も輸出した蚕種も明治半ばには全く途絶えた。上州豪商がイタリアへ出かけたのは、明治12年から15年、蚕種過剰生産と欧州市場崩壊で倒産寸前の上州蚕種業者の活路開拓の願いをかけた蚕種直輸出・ヨーロッパ洋行初体験だった。

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