定年後の読書ノートより
夢十夜、夏目漱石、現代日本文学館、文芸春秋社
夏目漱石はこんな夢をみたと連続十夜の夢を芸術的に心象風景としてまとめあげた。戦後フロイト心理学がもてはやされた頃、そんな勢いにのって、この作品は多くの観念論者の注目を集め、もてはやされたこともある。

<第1夜>死んだらまた返ってくるから、墓の横で待っていてね。約束通り白い百合が開いて、自分はその花びらに接吻した。もう百年たったかと気がついた。

<第2夜>座禅をしている。和尚はお前が武士なら悟れぬはずはないという。よし悟ったら和尚を殺す。悟らなかったら自刃する。悟れぬうちに時計が鳴った。

<第3夜>盲目の子を捨てようと森の中に入った。背の子が言った。お前がおれを殺したのは、今から丁度百年前だね。思い出したとたん、背の子は地蔵になった。

<第4夜>爺さんは土間に座っている。何処から来たかねと聞いたら、「臍の奥だよ」。浅黄の手拭いを持って、「これが蛇になる」という。蛇になるかといつまでも待った。

<第5夜>一目あいたい女が、裸馬に乗ってやってくる。しかし女は馬もろとも崖下に転落して消えた。鶏の鳴き声を真似した憎むべき天探女のせいであった。

<第6夜>運慶が護国寺で仁王を彫っている。無造作にのみを使っているのではない。前もって木の中の形を掘りだしているのに過ぎない。まだ木が見つからない。

<第7夜>大きな船に乗っている。どこに行くのか判らない。こんな心細い思いをするのはいやだ。死のうと飛び込んだが、落ちながら後悔した。

<第8夜>床屋に座っている。鏡の外に人が通る。女を連れた庄太郎はパナマ帽子を被っている。白い男が金魚売りを見たかと聞いた。金魚売りは動かない。

<第9夜>世の中ざわついてきた。その母親は毎夜八幡宮へお百度を踏む。三つになる赤子を背負う女。父親はとっくの昔、浪士に殺されている。

<第10夜>庄太郎は飛び込まないと豚に舐められると女に言われた。しかし庄太郎は飛び込まなかった。無数の豚が次々とおそってきた。

夏目漱石はこの道を進めば迷路に結びくと気付いた。漱石は以後この世界を振返ることもしなかった。しかし社会の現実から目をそらし、文人として新しい芸術を安全な隠れ場所に築こうと意気込む漱石といえども、安全な隠れ場所など文学の世界で簡単には見つけられるはずもなかった。この悲劇的宿命を弟子芥川竜之介は自ら背負いこんでいくことになる。

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