定年後の読書ノートより
実存主義とは何か;ヨースタイン・ゴルデル著、NHK出版
実存主義の幾つかの本を読んでみた。殆どが思わせぶりな文章が延々と続き、さっぱり言ってることが判らない。難解な哲学書はノーサンキュウー。矢張り「ソフィーの世界」が良く判る。筒井康隆氏が「文学部唯野教授」を書いた事情が良く判る

キルケゴールは、ヘーゲルは個人を軽く見て、他方ではすべてを世界精神の表現としていると反発した。キルケゴールは個人の意味について鋭い目を持っていた。1人1人の人間は1回きりの人生を生きている、この個人を大切にする気持ちからキルケゴールの哲学は出発した。キルケゴールは北欧コペンハーゲンの気候の為か、暗くて憂鬱、周りに激しく噛み付く性格の人だった。晩年はヨーロッパ文明を徹底的に批判し毒舌家だった。批判したのは文明だけでない。キリスト教のだらけぶりにも激しく噛み付いた。キルケゴールは言った。ロマン主義者は幻想相手に遊びほうけている。ソクラテスこそは実存的な哲学者だった。実存的な哲学者とは、自分のありようすべてを哲学的な思索と結びつける人だと。

キルケゴールはたった一つの普遍的な大真理の探究なんかより、個人が生きる上で意味のある、個人の数だけの真理を追究することのほうが大切だと考えた。キルケゴールは、人間の本性や本質を一般に通用する言葉で定義するなんて、どうでもいいことだ。キルケゴールは真理は主観的だとも言った。本当に重要な真理は個人的だと言ったわけ。キリスト教は人類にとって真理かどうかということは重要ではない。キリスト教はわたしにとって真実かどうかということが重要なのだと言った。

これらはすべてヘーゲルに対する批判から出ている。近代の都市社会では個人は大衆の一人になってしまう。そして大衆の特徴とは無責任なおしゃべりだ。さして深い思い入れもなく「私もそう思う」と不和雷同する。不安こそが個人が「実存的な状況」にあると気づくチャンスだ。ここで人はより高い段階へ跳躍するかどうか、それは自分できめるのだ。飛ぶか、飛ばぬか、答はひとつだ。

キルケゴールは人間の心がまえに注目した。君が何を正しいと考え、何を間違っているかと考えることは重要ではない。どうかかわろうと決断するかどうかが重要なのだと。

サルトルは「実存主義はヒューマニズムだ」と言った。サルトルの哲学は、人間の状況の容赦ない分析であり、神は死んだともいった。実存するということは、ただ存在するということと違う。自分の存在が気がかりで仕方がないのは、人間だけだ。人間は自分から離れて自分に向き合うことが出来る。対自存在なのだ。サルトルは人間の本質は、定義はない、自分をゼロから作らねばならないのだと言った。サルトルは、人間には拠り所となるような、そんな永遠の本質なんてないと考えた。人間は生を即興で演じなければならないと言った。サルトルは言った。顔のない群衆の中にずるずるとずり落ちてしまう人は、人格や個性を失った大衆の一人になってしまう。そういう人は自分から逃げて、自分で自分を騙して生きている。しかし人間の自由は黙っていない。自由は、僕達に、自分自身で何かをするように、真に実存して本物の人生を送るように強いてくる。実存するとは、自分の存在を自分で創造することだと

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