定年後の読書ノートより
働くものの学習法、畑田重夫、1975年刊、東邦出版社
随分古い本だが、ブックオフで100円で買ってきた。今はもう名大の先生でこうした本を書く人は誰もいない。例えこうした本が出版されたとしても、おそらくは殆ど売れないだろう。最近電車の中で、シンブン赤旗を広げて読んでいる人は殆ど見かけない。背広を着た大人達さえマンガ雑誌を一生懸命めくっている。学生が街角デモで激しく政治主張をしている姿なぞここ数十年ついぞ見たこともない。天下泰平なのだろうか、それとも国民すべてが腑抜けにされてしまったのだろうか。

畑田先生53歳の作品。この当時、畑田先生の元気なアジテーションが思い出される。畑田先生はこの本の中でこんなことを書いておられる。

階級社会では、あらゆる理論はかならず階級性を持っている。正しい認識こそ真理ではあるが、階級の違いによって、その認識が違う。正しい理論をもってすれば、誤った理論の本質をつかみ、実践の結果についても、見通しを持つことが出来る。人間社会をよりよく変革していく実践の中から、自分達自身の社会に対する認識が生まれ深まっていく。階級社会では絶えずきわめて厳しい思想闘争がおこなわれている。理論をより実践に統一していかねばならない。烈しい階級闘争なくしては社会変革はおこりえない。日和見主義とは実践と理論の両面でなまけ者の理論である。理論学習は、自己をつくりかえることを第1目標とする。そして、理論学習はこうあれと学習計画の立て方やノートの書き方まで指導される。本を読んだらノートを採れ。レーニンも、しっかりとノートを採って勉強してきたじゃないかと。

畑田先生はいつもこうしたアジテーションが大変上手な先生だった。しかし、先生は、その後に起きた、中国文化大革命の大混乱や社会主義ソ連の崩壊等をどうご覧なったのだろうか。

かって、青年達は闘いを正義と信じて集まってきた。その根底には、生活の貧しさがあり、敗戦で知った施政者正体への怒りがあり、戦後民主教育で培われた正しい社会へのひたむきな情熱があった。そして何よりも常に仲間の存在、団結の力強さへの信頼があった。

しかし、高度成長経済によって、人々は究極の貧困から次第に遠ざかっていくに従い、政治的無関心も同じように膨らんでいった。

生活は確かに充たされたかに見えた。青年は高価な自動車を走らせ、怠惰なポーズに自らの余裕と生活の個性重視を忍ばせ、しかし、一人一人は、皆ばらばらだった。そんな雰囲気が社会に蔓延していったためだろうか、小・中学校にさえ出かける気力も無くした子供達がどんどん増えている。

今青年達は精神的な不毛の荒野に放り出されている。彼等は、エリートが何だ、金持ちが何だと叫びながら、一方では自分自身が見えなくなっている。

そしてまた、この不毛の荒野に大人達は誰一人振り向こうさえもしない。何故なら、大人達自身が、どう青年たちに未来を語れば良いのか自分自身にさえ、責任が持てないからだ。呟く言葉は、いつも「若者は何を考えているかワカラン」。

青年諸君、闘いはこれからだ。身近に民主主義を確立していくこと、これが大切なのだ。本当の民主主義とは、憲法の精神を職場に生かしていくことだ。この大切で、地味な一歩一歩を、職場の全員が真剣になって展開していく為には、君達はもっと科学的社会主義を学ばねばならないと思う。

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