定年後の読書ノートより
今こそマルクスを読み返す。東大教授 広松 渉 著、講談社現代新書
1990年6月の発行。この本の題名が意味する世界と、ベルリンの壁崩壊の同時性が、いかにも広松先生らしい。難解な文章。先生は「おくがき」になるべくわかりやすいようにし上げたと書いておられるが、本文を読むと矢張り難解な文章が続く。

スターリンが批判された後も、マルクス主義の理論書は、結局従来通りソ連主流派の元で解釈され、発行されてきた。だから、われわれは、その影響下で過ごしてきたことになる。目下ソ連の崩壊を機に、いまこそマルクス思想の原点に返って読み直すべきではないかというのが広松先生の主張。

この本で特に印象に残ったのは、第1章「マルクスの開いた新しい世界観」の第1節「人間観をどのように改新したか」である。読み応えがある。

人間をどう観るか、これは社会観、歴史観を大きく規制するものだ。近代思想において、学者先生達は人間を「理性的存在」と観てきた。マルクスはこうした見方を否定するわけではないが、それ以前に、人間存在を、生産活動を営む動物、しかも本源的に社会に内存在する動物という視点でとらえてきた。マルクス以前の学者は、この事実を見落としていたわけではなく、人間をもっと観念的な視点からながめ、生産活動を営む動物であるという基本事実を当時ないがしろにしていたことは事実です。

マルクスは、哲学的人間学の師と言われるフォイエルバッハの人間学を再構築した。その過程は「ドイツ・イデオロギー」に詳しくまとめられています。マルクスは人類史的な観点から人間は生産活動を営む存在者であるとの視軸を確立しています

「そんな基礎事実は人間学の常識ではないか。そんな見地から観るのでは一向に哲学的・思想的な深みがないではないか」と思われる読者もあろうかとおそれます。なるほど、今日では常識的なことかもしれません。しかしマルクスの時代では、どうだったでしょうか。人間存在を、生産活動を営む動物という視点から観る観方は、経済問題や社会問題ではありましたが、哲学的な人間の存在規定という根本的次元の視点ではありませんでした。

当時の学者先生が「人間」を観じる場合、意識的活動とか、精神文化の創造とかにばかり眼をうばわれており、人間の物質的生活という基礎場面には留目しませんでした。

学者先生は「人間とは実存的な無である」とか「人間とは無の深遠に架け渡された橋である」とか、こういう「深遠」「高尚」な議論に熱中され、マルクスのいう、物質生活に基礎事実をおいた人間観は「卑俗」「浅薄」であると敵視、または無視されてきました。

勿論、マルクスは、人間がいわゆる精神的文化を発達させている事実を無視したのではなく、その在り方を説明しようとしたのです。人間が時として「観念の楼閣」を築きうること、むしろイデオロギー構築に励むこと、その機制と事情を彼の著作「ドイツ・イデオロギー」の中では説明しております。

マルクスの人間観は、「フォイエルバッハに関するテーゼ」に「人間的本質は、その現実態においては、社会的諸関係の総体である」という言葉が有名です。この考えはフォイエルバッハの類的本質存在と規定していたものを、止揚して設定したものです。マルクスは、人間存在を生産という人間的活動に視座を据えて、人間存在の定義的規定を位置づけたのです。

読者が、マルクスの理論を「新味に乏しい」と感じられるとすれば、マルクスの生きた時代の学界における人間観に思いを馳せ、かつまた、今日ではマルクス的な視角が、「学界の共有財産」に繰り込まれるようになっている現実をよく考えて頂きたいものだと思います。

このような説きぶりで、広松先生は慎重に、慎重に、われわれがもう一度マルクスの原典にかえり、マルクスが生きた時代にかえって、マルクスの思想の発展を学び直す必要を説いていかれる。先生は易しく書かれたとおっしゃるが、難解な文章が続く。しかし、内容を理解していくと、なかなか面白い本だと思う。

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