定年後の読書ノートより
回想の人びと、宮本顕治著、新日本出版社
高校時代最も衝撃を受けた1冊とは、宮本顕治氏が東大在学中に雑誌「改造」懸賞論文で入賞した「敗北の文学」だった。以後自分は宮本顕治・宮本百合子の全作品を貪るように読み込んだ。思えば自分の青春は「敗北の文学」に源流を発している。

1908年生まれの宮本顕治氏、すでに95才になっておられる。この「回想の人びと」は1985年に発行されているから、78才の時の作品になる。氏の人生の集大成にあたって、人生を振返り、巡り合った多くの人々との思い出をまとめられた1冊である。本の中に、有名なる「網走の覚書」がある。網走刑務所にて、原爆被爆の弟を思い、一人残された母を思う宮本顕治氏の苦しみ、悲しみは読む者の胸を締め付ける。思えば、松山高校時代左翼運動に参加しようとする息子に対し、「そういう世の中にどうせなるんなら、お前が何も無理して犠牲になることはないんじゃないか」「そうなるんなら、自然になるだろう」と、母は一生懸命に息子の平穏な人生を切望していたが、顕治氏は信ずる道を歩んでいった。。

この本には、宮本百合子氏が国家権力で瀕死の拷問を受け、これがもとで百合子氏は早世する結果となるが、同様に顕治氏自身も自分にもこんな経験があったと書いておられる。

「私自身も監獄でしばしば病気で瀕死の状況におちいりました。そして監獄側と申しますか、裁判所、検事局は、転向しなくとも陳述して調書をつくりさえすれば外で死なせてやると言いました。しかし私は生きることを大事に考えるからこそ、生きる為にそこからくる避け難い苦難、それがたとえ自分の死を早めることになっても、やはり生きる為にこそ原則を守らねばならないとこう考えて、私もそこを突破したのです」。

宮本顕治氏は12年間の国家権力による独房における虐待、拷問の数々に対し、最後まで黙秘権を押し通し、勝利を勝ち取ったことは誰もが知るところである。

これは、戦争に反対するという思想貫徹が如何に大変なことであったかを如実に示しているが、今も権力に迎合する人びとの宮本顕治氏への数々の誹謗も、それは最終的には誹謗する当人のブザマナ姿を国民の前に暴露するのみである。春日一幸然り、ハマコー然り。そしてこの2人のブザマさに加えて、さらに悪臭を放つ人物達が、今も平然とこの世の中に、なんとうようよしていることか!。

しかし、戦後60年、時代はますます複雑になってきた。宮本顕治氏も本書の中で書いている。「外国の共産党からの不当な干渉に対し、断固として日本の正しい路線を守り抜くことが必要である。こういう不当な干渉は、戦前の多くの革命家、例えば市川正一同志も、予想もしなかったことであり、あえて言うならば、レーニンも予想しなかったと思うのであります」

氏はこの本の中でも、中野重治、小田切秀雄、袴田、佐多稲子等かっては同志と呼んで、心から信頼しあった間柄の人々を厳しく、激しくののしる、この感覚はどうしても、素直についていけない。もし自分がこのような立場なったら、とても1日ももたないだろうと思う。

しかし、こうした小生の様な気の弱い人間に対しても、宮本顕治氏は、何も前衛活動だけが政治活動ではないとはっきり語っておられるのは救われる。

すなわち、それぞれの人間がそれぞれの場所で、自分の才能に応じて頑張れば社会は良くなると言っておられる。要するに、我々は現実をしっかりと見つめ、社会の本質を見抜き、この社会に一歩一歩本物の民主主義を建設していくことが、社会の幸せにつながっていくのだという常日頃自分が考えていることを、はからずも宮本顕治氏もこの本の中で語っておられるのを読んでさすが敬服する宮本顕治氏と強くこころを打つものを実感した。

政治闘争というのは、階級闘争の中心ですね。党と党との争いは、社会発展の方向を集中的に示すわけですから、非常に責任があるのです。一律に党の専従になることが、政治の主導性ではありません。その点では、戦後たくさんの活動分野があって、それぞれに自分の才能に応じて参加すれば良いのです。要するに人間を豊かにする社会活動の分野で、各自が才能に応じて、自分を選べばいいんですよ。たまたま私はそういう点では数奇な運命にめぐりあって(笑い)

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