定年後の読書ノートより
悲しき熱帯、レビィー・ストロース著、中央公論―世界の名著―
1935年、フランス系ユダヤ人レビィー・ストロースはブラジルの奥地に、インディアン調査旅行に出かけた。前半は氏がブラジルに来るまでの半生記、後半は奥地探検記である。レビィー・ストロース氏は哲学教師であり、ナチスに屈服したビィシー政権下のフランス、ユダヤ人である氏にとって、危険な地であった。氏はアメリカに亡命、そこで言語学者ヤコブソンと出会い、構造人類学形成へと導かれる。本書探検ではカドゥヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トウピ・カワヒブ族の実生活観察こそが、後年氏の構造人類学の創設の世界を開かせたのである。

奥地探検は極めて危険な旅であった。

背の高い草の中を馬で進むと、繁茂する植物に囲まれる。見かけは何事もない一枚の葉の裏に、ダニの群れがうごめく。オレンジ色の無数の小動物が衣服の下に潜り込み、流動する布のように身体をつつんでこびりつく。太った寄生虫が、皮膚になんの痛みも感じさせずに、取りつき、何日かの後、身体全体が膨れ上がり、メスで切開しなければならなくなる。

こんな環境下で、氏は部族の原始生活をつぶさに観察していく。特に興味深いのは、首長の言われる男が、何故首長になるかという考察。「契約」「同意」という「1次原料」は存在しない未開地、権力の心理学的基礎とは何か、給付と反給付の「相互交換」の観念が底にあると考察。給付と特権、便益と義務の均衡、一夫多妻の特権を握る首長の集団的役割と地位。首長になる人間がいるのは、どのような人間集団においても、仲間とはちがって、特権そのものを愛好し、責任を持つことに惹きつけられ、そして公の仕事の負担そのものが報酬であるような人間がいるからであると氏は考察する。

人間はみな同じようなものではない。個人の差異は「個人主義的」といわれる私達の文明におけると同じくらい見分けられ、利用されていると

ところで、構造主義に対する実存主義とは主体としての人間の自由意志と理性を認め、それが歴史に参与し、歴史を変えていく。実存主義は人格に実存性を与え、行動の主体性を説くことにより、実存主義はヒューマニズムであると主張する。この考えに対し、構造主義は、個人は、心理学的、社会学的な構造によって拘束されるばかりではなく、破壊されていることを実証し、実存主義を楽観的弁証法と警告する。

僕自身が直観として感じた二つの現代思想の違いは、実存主義は人間にのめり込み過ぎて、人間が見えなくなっている危険があり、構造主義は、逆に距離を置いて客観的に全体把握しようとし、のめり込む危険性をさけているが、同時に実践性をなくしているのではないかと考える。勿論自分の直観がどこまで間違っているのか、これから少しづつ二つの現代思想を勉強していきたい

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