定年後の読書ノートより
シルクロード(下)、ヘディン著、岩波文庫
紀元前、前漢の武帝は、約100人の使節団を張けんの指揮のもとに、月氏に派遣した。月氏はきょう奴によって西に追われた後、大宛、つまり今日のフェルガナに定住していた。武帝は、中国の貿易や西方への勢力拡大を考え、とりわけ、血の汗をながすという汗血馬を欲しいを意識した。武帝は6千の騎兵による軍勢を派遣した。生きて帰ったのは10分の1であった。武帝は怒り狂い、兵6万、馬3千、牛、ロバ、荷車、ラクダの大軍団を派遣した。汗血馬30頭、牝馬3000頭を得て、馬匹改良に種馬牧場を作った。この遠征によって、仏教の浸透も進んだ。これによって、西方貿易の大動脈が開かれた。万里の長城はさらに西に伸びた。長城は交通と貿易を守るために望楼を備えた。この道路が皇帝道路もしくはシルクロードと呼ばれている。その要塞設備や防御設備は、考古学者オーレル・スタインによって徹底的に調査され、記述されている。

絹はすでに2千年前に、全世界から珍重され、求められた。紀元260年頃、中国の都市、楼蘭では、生活は繁栄していた。ヘディンは1900年3月この町の廃虚を、水の枯れていたロブ・ノール近くで発見した。楼蘭はこの大交通路の関門の要塞である。

楼蘭へ行くには、中国文化最後の前哨基地敦煌から荒涼たるタリム砂漠を越えて行かねばならなかった。

楼蘭絹貿易と町そのものが見捨てられてしまったのは、タリム川が紀元330年頃、川筋を変えて、南に流れはじめ、ロブ・ノールを形成したことにある

楼蘭の町そのものは、まるで地球の表面からかき消された。1273年マルコ・ポーロは近くを通りながら、このベネティア人楼蘭のことは何も耳にしていない。

西安、せん西、甘粛を経て、長城の最西端の関門、嘉よく関に至る大通商路を中国人は皇帝街道を呼んでいる。そこからカシュガルまで、さらに西に延びる区間は、今日なお天山南路という名を持っている。シルクロードという呼び名は中国では使われたことはない。リヒトホーフェンがシルクロードという名を取り入れた最初の人であろう。西安から敦煌まで行くには、シルクロードは唯一の道である。東トルキスタンの西部では道は幾つかに分かれる。ひとつはフェルガナを経てサマルカンドもしくはタシケントに向かい、アラル海の近くのアラン人の国を通る。

すでに武帝以前に中国から絹が輸出されていたことは疑いを容れない。クルミア半島のキェルチェ近くのギリシャ植民地で、絹が発見されたことがある。アレキサンダー大王の将軍ネアルクスも、北からインドに入ってきたセレス人の布について語っている。

この通商路は各民族や大陸を結ぶもっとも長く、文化史的見地からは最も重要な連絡路であったと言っても、決して誇張ではない。

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