資本論 宮川ゼミナール 学習ノート (1220日講義分、1111日に予習、収録)


資本論第1部 資本の生産過程

  第1篇 商品と貨幣

第1章  商品

 第1節  商品の要因ー 使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)

さあ、ワクワクするような 有名な書き出しで、資本論が始まる。

資本主義的生産様式が支配している諸社会の冨(商品の巨大な集まり)として現われ、個々の商品はその冨の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる」と。

商品の属性は、大きく2つある。商品の有用性、すなわち使用価値と、商品に内的な固有価値すなわち交換価値。商品は、使用価値は違っても、交換価値が同じなら商品は物々交換出来る。ここでは、使用価値は商品の質であり、交換価値が商品の内在する量に相当する。

内在する量とは、商品が労働生産物であるという属性だ。すなわち抽象的人間的労働の量が2つの商品で同じなら物々交換は成立する。抽象的人間的労働という難しい言葉を使ったのは、その商品に内在する労働の分量は、その労働の生産力に反比例することを言いたいからだ。労働の生産力が大きければ大きいほど、ある物品の生産に必要とされる労働時間はそれだけ小さく、商品に結晶化されている労働量はそれだけ小さく、したって交換価値は小さくなるということをはっきり表現したかったからだ。


第2節 商品に表される労働の二重性格


商品は、使用価値交換価値を持っている。商品が交換されるのは、商品の使用価値が違うからだ。社会的分業があるから、使用価値は異なり、商品生産が成立し、交換が成立する。上着を作る裁縫労働と、布を作る織布労働は同じではないが、人間的労働力の支出という視点から評価すれば同じである。これらの商品に内在する労働は、単なる同種の労働に還元することが出来る。重要なのは、この労働が人間的労働力の支出であるということ。

では、2つの商品の交換価値の違いはどこにあるか。それは労働力の支出された時間が違うということにある。生産に支出された労働分量が違うのだ。

ここで ちょっとややこしいが、原文を引用して、労働と生産力の関係を明記したい。

労働の多産性を、それゆえ、労働によって提供される使用価値の総量を、増大させる生産力の変動は、もしそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値の総量の価値の大きさを減少させる。

上記の内容を理解し易いように現代イメージで書き直せば、技術革新で高性能化した機械を購入し生産効率倍増すれば、従来と同じものを生産するのに作業員は半分に減少出来る。しかし、同時に商品の価値も、半分に下がっているのだよということ。


第3節 価値形態 または交換価値


さて、貨幣形態の発生を立証。しかし、この節で延々と続く、等価価値の論理は、興味ある人には面白いかも知れないが、僕には、くどくて、まだるっこくって、正直細かく読む気がしない。要するに、商品に内在する抽象的人間的労働の重要性を実証しているのだが 商品とは有用的具体的労働の生産物であるということをアリストテレスさえも理解出来なかった。何故ならば、彼の属した奴隷社会では、人間労働の平等性という思想は成立しえなかったから。

そこで 原文から引用すれば、あるひとつの商品の価値は、商品世界の無数の他の要素で表現される。その自然形態に等価形態が社会的に癒着する独自な商品種類は、貨幣商品となる。社会的慣習によって、商品 金の独自な自然形態に最終的に癒着しているということだけである。一般的価値形態が貨幣形態に転化する。ということ。


第4節 商品の物神的性格とその秘密


商品の価値の大きさは、交換者達の意思、予見、及び行為には関わりなく、絶えず変動する。商品世界の完成形態ー貨幣形態ーこそは、私的諸労働の社会的性格、私的労働者達の社会的諸関係を物的に覆いかくす。ロビンソンは、自分に必要な物をつくる労働時間を目に見える形で表現し管理できた。しかし、現代人社会ではそれは不可能。全ての労働は、社会的である。このような社会ではもう古い宗教も存在出来ない。古い経済学では、人間が生産過程を支配しているにも関わらず、人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に所属していることを見ようとはせず、その結果この生産的労働の社会的関係を解明は出来ない。それは、教父達が前キリスト教を取り扱う場合と同じだ。どんなに多くの古い経済学者達が、商品世界の物神崇拝にあざむかれていることか。

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