J 第11講 剰余価値論のまとめと労賃・第4篇・第5篇・第6編

資本論を読んで、大きく感動!!。

資本論は、マルクスが、資本主義経済の問題点を追求し、その問題点解決の為には、革命が必要であることを論証した歴史的書物であると認識してきた。だから、資本論のどこを開いても、資本主義の問題点、矛盾点が書かれ、これを糾弾するマルクスのするどい論及が全篇にわたって貫かれていると認識してきたが、この考えは余りにも浅薄であるとこの度、第4篇、第13章を読んで初めて判った。


資本論原本511pには、マルクスは次のように書いている。

近代的工業は、ある生産過程の現存の形態を決して最終的なものとはみなさないし、またそのように取り扱わない。それゆえ近代的工業の技術的基盤は、革命的である。−これまでの生産様式の技術的基盤はすべて本質的に保守的であったが。近代的工業は、機械、化学的工程、その他の方法によって、生産の技術的基礎とともに、労働者の諸機能および労働過程の社会的諸結合を絶えず変革する。近代的工業は、それとともに社会の内部における分業も絶えず変革し、大量の資本および大量の労働者をある生産部門から他の生産部門へ間断なく投げ入れる。それゆえ大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を条件づける。他方、大工業は、その資本主義的形態においては、古い分業をその骨化した分立性とともに再生産する。すでに見たように、この絶対的矛盾が、労働者の生活状態をいっさいの平穏、堅固、および安全をなくしてしまい、労働者の手から労働手段とともに絶えず生活手段をたたき落とそうとしており、−そして労働者の部分機能とともに彼自身を過剰なものにしようとしている。さらに、この矛盾は、労働者階級の絶え間ない犠牲の祭典、諸労働の際限のない浪費、および社会的無政府性の荒廃状態のなかで、暴れ回る。これは否定的側面である。


ここまで読んだ時、僕は三井三池炭鉱の大争議や、国鉄労組の合理化反対闘争の泥沼化を思い出し、技術革新に抵抗したあのような争議はどう評価すべきか迷った。あくまで弱い立場の労働者階級の生き方に関して、マルクスはどう述べているのか、その先に注目した。しかしマルクスは、次の様に書いていた。


しかし、労働の転換がいまや、ただ圧倒的な自然法則として、またいたるところで障害に突きあたる自然法則の盲目的な破壊的な作用をともないながら、実現されるならば、大工業は、労働の転換、それゆえ労働者の可能な限りの多面性を一般的な社会的生産方式として承認し、そしてこの法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、自己の破局そのものを通じて、死活の問題とする。


すなわち、マルクスは、ラダイット破壊運動なんて、盲目的な労働者がやることであり、そうではなく、未来を生きる労働者は、技術変革に準じ、工場の内外で、労働者自身が新技術適応に向けて、全力をあげて勉強せよと主張している。

これほど、近代的工業の中で生きる労働者の生き方に、明確な、そして鋭い思索を明示した論文は、資本論が始めてだ。我々は、もっと資本論を真剣に学ぶべきである。

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