マンガで仕上げた自分史

「より良い人生」とは何か

ある未知の方が、この自分史を「縦書き小冊子版」に編集して下さいました。

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                  昭和13年生 西川尚武    (平成20年1月1日更新)



自分史を書いてみよう、そう思い立ったのは、父の50回忌に際し簡単な家族史をまとめたのがきっかけでした。


上昇志向のストレスが寿命を縮めると見抜けなかった
父・西川鋼蔵(S25没享年42歳)、

5人の子供を女手一つで元気に育て上げた
母・西川タマ(S63没享年72歳)、

銀行員に忍び寄るストレス、胃潰瘍手術失敗で命を亡くした
末弟・西川徳三(S54没享年28歳)、

人工透析で25年間も、夫と息子に支えられ生命を全う出来た
姉・藤井雛子(H7没享年59歳)、

広告宣伝界で活躍中だったが突然心筋梗塞で早世した
次弟・西川東亜雄(H8没享年56歳)、

家族史を綴りながら今は亡き一人一人の故人を忍び、やがて、「それでは尚武、お前自身はどう生きたのか」そんな疑問を自分自身に投げ掛け、問い詰めたくなってきました。

従って私の話も、昭和26年父が突然胃病で他界し、家計救済の為、長男である私が母の元を離れ、伯父の家に、菓子職工手伝いとして住み込み働き始めた数え年13歳、中学1年の春から始めさせて頂くことになります。

第1章 駄菓子の町

当時の日本は、まだ貧しさがすべての問題の根本に潜んでいる哀しい時代でした。敗戦の混乱からやっと立ち直ったとはいえ、中学を卒業して高校へ進学出来る人は、ごく一部の恵まれた子供達だけで、多くの少年、少女は中学を卒業すると直ちに都会に出て就職するのが当たり前の時代でした。

名古屋市西区は、駄菓子の町。大きな自転車の荷物台にリンゴ箱を積み重ね、ふらつくハンドルを握り締め、狭い長屋小路に内職仕事を届けたり、駄菓子製品を明道町の菓子問屋に納めたり、そんな仕事が中学1年の自分に出来る毎日の日課でした。あの頃の西区下町一帯は何処へ行っても駄菓子を作る強い香料の匂いが流れていました。

伯父の製菓工場も、そんな下町風景の中にありました。我々、店の者(その頃にはもう“小僧さん”という言葉は使われなくなっていました。)は、工場2階6畳間に4人が住み込んでいました。

部屋の片隅には菓子を詰め込むリンゴ木箱や、餅米吸湿用の湿ったござが山と積まれ、部屋の中央はかろうじて布団2枚が敷ける隙間がやっとでした。自分はいつも宇治山田から出てきた“昇さん”と一つ布団で寝ていました。

真冬には表通りに面したガラス戸からは冷たいすきま風が吹き込んで来るので、カーテン替わりに、夜になると吸湿用ござをガラス戸にぶら下げて、吹き込むすきま風を防いでいました。おかげで、湿気臭いわらの匂いが部屋一面に起ち込めていました。自分は部屋の片隅にあった小さな砂糖菓子乾燥機の中に裸電球をぶら下げ、皆が寝静まった後、リンゴ木箱を机代わりにして中学校の宿題を片づけていました。

朝は6時になると、階下から、伯父が大声で「尚武起きろよ」と階段を叩いて声がかかる。急いで自分ひとり階段を駆け降り、コークスの火を起こす。製菓用餅米が蒸しあがる度に、段取り良くせいろの取り替えを繰り返えす。餅つきが遅くまでかかってしまう朝は、学校は2時間目からの授業出席となってしまいました。

教室の後ろ戸をそっと開けて席に着く。遅刻は毎日のことなので、誰もうしろを振り返って見られることも無かったし、先生も何も言われませんでした。学校から帰ると、早速製菓用餅米の米砥ぎを、大樽2杯仕掛けるのが自分の仕事。冬の寒い日は手が真っ赤になる。大樽の底に指先が突き当たるとズキンと指先が痛む。夏は工場内は1日中餅を焼き続ける炭火でうだるように蒸し暑く、夏休み中はいつもパンツ1枚で過ごしました。

食事は土間に長椅子を下ろして、暗いガス台に向かって交替でめしをかけ込みました。炊事ばあさんは、近くの長屋から通いでやって来ます。このばあさん、衛生観念などまるっきりゼロ。店の者が今まで鼻拭き用に使っていた汚れた綿布をそのまま使って飯を蒸したので、飯の中にどろりとした黄色い異物が一杯混ざり込み「これはなんだ」と皆で騒いだこともありました。そこいらにある綿布を使って、ご飯を蒸し返すことはばあさんにすればまったく当たり前のこと、綿布を洗うことすら、意識にはなかったのです。

 

夜は最後に製菓工場内をほうきですみずみまで掃除するのが自分の最後の仕事でした。いつも夜8時は過ぎていました。急いで夕食をかけこむと、2階に駆け上がり、リンゴ木箱を机替わりにして、乾燥機の中の裸電球をつけて宿題を片づけました。

夜遅くまで電灯が点いていると、布団の中で横になっている仕事仲間から「おい明るくて寝れんぞ」としばしば怒鳴られました。宿題をするにも仕事仲間に気をつかわねばならず、いわんや予習、復習など、とても手が及びませんでした。

“昇さん”が辞め、新入りの“友さん”が住み込みになった時、彼と同じ布団で寝ることになりました。夜中、下の方が急に妙な気分になって目が覚めました。友さんの手が、下の方でヌメヌメと動いています。翌朝敷き布団には大きな染みが出来ていました。これが仲間から仕掛けられ“せんずり”初体験でした。

(後年、細井和気蔵著「女工哀史」や、エンゲルス著「英国における労働者階級の状態」を読んで、若い貧しい労働者が、一つ布団に2人寝るという生活環境は人間としてどんなに劣悪なことか、激しい言葉で糾弾してくれている箇所を読み、こういう身近な、そして切実な問題に激しい怒りを感じて書いてくれるのは、結局アカと呼ばれる労働者の真実の味方だけだと感動し、生涯誰が労働者の本当の味方か自分にははっきり見えていました。

しかし、こうした素晴らしい本に出会ったのは、ずっと後のことであり、かっての仕事仲間はおそらく一生の間、世の中にこんな素晴らしい本があることも、そして労働者階級解放の為に自らの命を犠牲にして死んでいった大勢の先覚者達がいたことも今も知らずにいるのでしょう。残念でなりません )

あの頃の中学生は、まだ誰もが貧しかった。下駄履き通学が普通で、靴を履いて通学する人はわずかしかいません。自分の場合菓子で使う餅の粉がベトベトになって足の裏にくっつき、ねばつき、その内にベトベトが足の裏の形のままに下駄に黒くこびり付き、教室の下駄箱でいつも異様に汚れ、目立っているのは、自分の擦り減った下駄だけだったのが恥かしく思い出します。

冬は寒くても、温かいセータ1枚買って貰えるわけでなし、肌着シャツの下に新聞紙を何枚も重ねて身体を温めました。「尚武の背中を触ると、ゴソゴソ紙の音がするぞ」と皆に笑われました。皆に背中を触らせないように、いつも身体の向きに気を使いました。

炊事のばあさんは、朝早く近くの長屋からやって来て朝飯を作ります。見ていると炊事衛生は無茶苦茶です。飯の中に何度もゴキブリが混入していて、今もゴキブリがどんな味をしているか鮮明に憶えています。

時々味噌汁の中にも、ゴキブリが黒く浮かんでいました。箸で摘まんで、黙って捨てました。ゴキブリはコオロギみたいに、羽根がついていました。

夜はいつもくたくたになって寝てしまう。ある日自分の布団の上で猫が鼠をがりがりかじっているのに気がついても、この猫を追い払う力も無く、猫の重さを肌に感じながら、 そのままくたくたになって眠ってしまいました。朝起きると布団の上に鼠のシッポだけがそのままの形で残っていました。今も猫を見るとあの時の事を思い出すので大嫌いです。

学校で必要なお金はその都度、伯母に申し出て現金を貰いました。教科書は極力友人から借りたり、遠足は休んだりして、お金をもらう機会を減らしました。

学校の成績は予習、復習が不十分な割には廊下に貼り出される学年順位はいつも上位にありました。2年生の秋、全校生徒会会長に選ばれてしまい、毎月1回開かれる生徒会では議長をつとめました。しかし生徒会がある日は下校時間が遅くなり、帰宅後伯父にぶつぶつ叱られました。

3年生になり、進学か、就職か、いよいよ正式に書類を提出しなければならなくなってきました。しかし、自分は将来高校へ進学するか、それとも就職するか未だ進路決定さえはっきりしていませんでした。

自分自身は早く就職して、少しでもお金を儲け、母を楽にして上げたいと思い詰めていました。世の中、夜間高校もあることだし、普通高校なんて余裕のある人が行くところだとあきらめていました。毎月1日と15日は製菓工場は休日となります。その日がたまたま日曜日と重なる朝は、急いで母の家に里帰りをして母や兄弟と一緒に1日を過ごしました。

父親のいない幼い弟達はきっと淋しいのでしょう。久しぶりに里帰りした私の周りに走ってきて、「尚武兄ちゃん」とまつわり付きます。母は連日の徹夜針仕事ですっかりやつれ果て、いつも胃が痛むと言っていました。母一人だけに貧困の苦労を背負わせてはあまりにも母が可哀相だ。よし、自分は中学を卒業したらそのまま就職しよう。例え将来中卒と他人から下げすみを受けてもそれはそれで仕方がない。自分自身ではそうあきらめていました。当時は、家庭の事情で高校進学を断念する生徒は一杯いました。

生徒会顧問に高木先生という大変目のキラキラした先生がみえて、「西川君読んでごらん」と、ある日「やまびこ学校」という1冊の作文集を貸して下さった。この本は、山形県の貧しい山村中学生が、自分達はどうしてこんなに貧しいのか、一人一人が生活をじっと見つめて書き上げた作文集でした。この作文集から貧乏はじっと見つめるべき大切な主題であることを子供心につかんだ覚えがあります。

貧乏は大切な生活テーマだという事を知ってむしろ驚ろきました。当時の常識では、貧乏は他人に言えない恥かしいことであり、むしろ貧乏は出来るだけ隠すべき自分の内緒事と意識していたのに、この作文集では真正面から貧乏問題に取り組んでいます。1冊の作文集は自分にとって貧乏問題を考える最初のきっかけとなりました。

中学3年の夏、教科書掲載のコペル君の発見を書かれた吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」を学校図書館から借りてきて読みました。この本の中に、「君達は何よりもまず、もりもり勉強して、学問の頂上にのぼり切ってしまうのだ。学問の頂上に立てば、広い世界が見えてくる。」と書いてありました。この言葉、この生き方にすごく感動しました。吉野源三郎氏のこの言葉がきっかけとなり、「よし、自分も高校に進学しよう」と決意しました。東京の叔父に「是非高校に進学させて下さい」と長い長い手紙を書いて投函しました。東京の叔父から上京を承諾してくれる温かい返事を頂いた。人生の大きな転機がやってきました。

後年年老いた名古屋の伯母は「尚武チャン、あの頃は苦労させて何にもしてあげられなくて、本当にごめんね」と言われたことがあります。しかし自分は誰にも恨みなど一度も持った事はありません。ただ、この世に金持ちと貧乏人がいて、貧乏人は働き、金持ちはいい家に住んで、世の中順調に渡っていけるものだとあきらめていました。

大きな会社を経営する金持ちは、群がる貧乏人達を働かせ、儲けたお金をどんどん貯えて、ますます会社を大きくしていきます。自分達貧乏人は、そんな金持ちに生涯仕え、じっとガマンを通します。要するに、世の中には大きく金持ちグループと貧乏人グループの二つがあり、自分達は貧乏人グループに属しているのだと自覚していました。

しかし、貧乏の怒りを駄菓子屋の伯父さんに個人的にぶつけてしまうのは間違いだと考えていました。自分達が貧乏なのは決して伯父さんのせいではない。伯父さんはむしろ僕達に同情してこうして働かせ、学校にも行かせてくれる。感謝しなければならない。

名古屋市西区は、全部が貧乏人ばかりの町です。貧乏人が、貧乏人同士で、お互いにいがみあっても、どうしようもありません。金持ちや貧乏の問題を考える時は、一人一人の顔かたちを思い浮かべ、いがみ合うのではなく、金持グループ、貧乏人グループという大きな社会集団が激しく対立しているから、まずグループの力関係を見詰めなければならないと判ってきました。自分も貧乏の問題を、社会の仕組みから見詰めるようになってきました。個人レベルの問題から社会レベルの問題へと視点を大きく広げていくべきだと判ってきました。

「やまびこ学校」の作文集では、この貧乏問題をきちんと考え抜いて、立派な作文に仕上げています。高木先生も、「西川君、君のことも作文に書いてみたら」と呼びかけて下さる。貧乏に対する考え方は、自分がこれから生きていく上に非常に大切な問題だと判ってきました。貧乏は個人の生き方と結びついている根本的な問題なのだと自覚し始めました。毎日、自分達貧乏人が通う天神山中学のすぐ隣には学芸大附中があり、この中学校には、金持ち坊ちゃん達がニコニコ笑いながら幸せそうに通学してきます。附中の彼等を横目で見ながら、貧乏とは人間の生き方と直接につながっている根本問題だと体感し始めていました。

次第に自分にも、社会の焦点が見え始めてきました。そして、自分が貧乏人であるという自覚を深めれば深めるほど、この世の中、貧乏人がいつまでも泣いてばかりいるのはおかしいではないか、そう考える様になってきました。

自分が東京の叔父の家に出発し、名古屋の製菓工場を去った後、今度は次弟東亜雄が伯父の製菓工場で働くことになりました。弟は貧しさへの怒りを、親戚である伯父に直接ぶっつけて、伯父を糾弾する手記を学校新聞に載せ、これが伯父の目にとまり、伯父はかんかんになって怒ってしまいました。

 

弟は貧乏の問題をもう少し、社会全体からじっくりと考えるべきでした。本当に自分達を苦しめているのは、伯父達ではなく、世の中、貧乏人と金持ちがいて、社会の仕組みとして貧乏人グループは、金持ちグループからいつも苦しめられている。要するに社会の仕組み、社会の構造にこそ貧乏の原因がある。伯父とても、我々貧乏人グループの一人に過ぎない。我々を苦しめている敵は金持ちグループという、ものすごい権力をもっている強力な大集団であり、とてもとても容易には手向かうことなど出来ない集団だ、しかし憎い、憎い相手でもあると毎日考えていました。

このことはその後も機会あるごとに弟にじっくりと話して聞かせましたが、何故か弟は最後までこの言葉の意味を理解しようとはしませんでした。相変わらず伯父達と弟との間にはまずいしこりが残ったまま、弟は高校進学を自ら諦め、中学卒業後、直ちに就職、広告美術の世界に入っていきました。どちらかといえば、激情派に属する人間かも知れません。母は次弟東亜雄こそ、兄弟の中で一番素直だし、頭も良く、根性もしっかりしているといつも誉めていました。次弟は後年、長兄である私が4年制国立大学にまで進み、それに引き換え弟自身は中学だけで終わってしまったことを、一度も私の前で愚痴ったことは有りませんでした。しかしその弟も平成8年、56歳にして、冬の或る日、心筋梗塞で倒れ、還らぬ人になってしまいました。

第2章 東京・山の手

東京の叔父の家は、山の手自由が丘の静かな住宅街にありました。戦前私の父の資金援助でフランスに留学した叔父は東横や西武百貨店の広告宣伝美術を一手に引き受ける日展画家です。叔父の家庭は、東京中産階級が持つ豊かな知的潤いがありました。転入した目黒十中の級友達は、夏目漱石やロマンローランに通じ、我々名古屋の中学生には経験したこともない知的世界を楽しんでいます。名古屋の中学生なんて、所詮田舎者だと痛感しました。当然ながら名古屋から突然3年生に転校して来た自分は、名だたる名門高校への進学などは論外で、近くの都立目黒高校へ入ることになりました。

高校入学後サークル活動は中学時代から強い関心を持っていた社会科学研究会に入部しました。先輩達は社会科学の本を次々と貸してくれました。それらの本には、貧乏人グループと金持ちグループが、社会の仕組みとして、どのように対立し歴史的に闘ってきたかはっきりと書いてありました。むさぼるように、社会科学の本を次々と読みました。

社会科学は貧しさから如何に解放されるか、明確な結論を示してくれます。マルクスという偉大な思想家の名前を知ったのも、この頃でした。先輩からこの本を是非一度読んで見ろとポケットに押し込まれた1冊の岩波文庫、それがマルクス、エンゲルスが書いた「共産党宣言」でした。この本を読んで、「ああ、世界はこういう論理で動いているのだ」と始めて知りました。この本で味わった昂奮はその後の自分の人生に大きな影響を与え続けました。

高校入学と同時に始めた受験勉強、最初の憧れは東京大学工学部でした。

(東京大学への憧れは、その後も長く自分の心に残りました。しかし後年、息子研三は東大理科一類現役突破、工学系大学院電子工学科へと進み、私の力では為し遂げられなかった素晴らしい夢をとうとう息子がキチンと叶えてくれたのは、本当に嬉しく思っています。息子はその後、オーストラリアで開催された2000年度光通信国際学会へ東大を代表し修士論文を英訳して提出、世界各国から寄せられた500以上の研究論文の中で、最高位の論文評価を受けました。)

 

目黒高校3年間、自分は、社会科学の本を貪るように読みました。貧しさの根底には資本主義の矛盾がある。社会科学を学ぶことによって、世界を見る目は、どんどんと広がっていきました。これこそ、正に吉野源三郎氏が名著「君達はどう生きるか」で指摘しておられた、学問を学び、学問の頂上に登りつめれば世界が広く見えてくるという教えそのものです。当時盛んであった地域反戦運動にも、積極的に参加しました。都内高校生で組織した「わだつみ会」にも参加し、砂川基地反対闘争では、警官隊とも対峙しました。

受験勉強に没入すべき大切な高校3年間に、自分は社会科学への情熱がそれ以上に高まり、社会科学を学ぶことこそが良心に殉じた高校生活だと自分に言い聞かせていました。勿論、このまま受験勉強をおろそかにしていると、来るべき大学受験に失敗するかもしれないとの不安は常に自分を動揺させていましたが、自分の良心は偽れないと自分に言い聞かせ、大学受験勉強に傾倒しようとする自分を自分自身で軽蔑するという、妙な正義感意識で高校3年間、動揺の中で揺れていました。

文学の世界では宮本百合子こそ、如何に生きるべきかという切実なテーマを真正面から取り組み、戦中戦後、反戦平和を貫ら抜いた数少ない良心的な作家であることを知りました。目黒高校のすぐ近くにあった目黒区立守屋図書館に毎日通い続け、宮本百合子全集全巻を読破しました。宮本顕治の雑誌”改造”懸賞論文「敗北の文学」を読んだ時も、芥川龍之介の文学に秘められた苦悩とは、動揺する現代知識人に共通する苦悩であり、芥川龍之介は新時代を生き抜く勇気を持てなかったが故に、自殺への結論へと追い込まれていったとする敗北の芥川文学論に強く感動しました。 こんな読書生活は高校卒業までずっーと続き、結果として大学受験は見事に失敗してしまいました。

第3章 挫折から学んだ現実感覚

大学受験失敗。我を忘れて呆然と立ち尽くす。何ということだ。中学、高校と親元を離れ、親類のお世話で学校に通わせて貰いながら、しかも、父亡き後の我が家の貧困を母一人に背負わせながら、高校3年間、自分は受験勉強そっちのけで、社会科学一筋にすべての関心を集中させ、その結果が受験失敗とは一体どういうことだ。お母さん、ごめんなさい。悔恨の涙のざんげ。

どうして、もっと受験勉強に真剣に取り組まなかったのか。何故、高校3年間、受験勉強に熱中しなかったのか。自分は頭ばかりが前にのめり出し、自分の足元さえも、しっかりと見詰めてこなかったのではないか。我が足元をかえり見る。しまった。自分は走るべき道を間違えている。遠くに見えるあの道こそ自分が走るべき道だったのだ。人生は一方通行。Uターンは許されない。悔恨のざんげの中で聞こえて来た自戒の言葉。「自分を見詰めろ!もっと足元をしっかり見つめよ」。悔恨から涙で再出発。一歩一歩の起ち上がりは本当に辛かった。

「自分を見詰めろ、もっと足元をしっかり見つめろ」。この自戒の言葉はその後の自分の生涯を大きく制御した。1年の浪人生活の後、スタートした大学4年間、もう時計の針は高校時代の様に、トントン拍子に前に進めることはしませんでした。60年安保が激しく燃える頃、自分も学生運動のうずの中にありました。親しかった友人G君は高い倫理感に燃えて日本共産党に参加していきました。しかし、自分は何度入党を誘われても、彼と同じ坂を登ることは出来ませんでした。「自分を見詰めろ、もっと足元をしっかり見つめろ」。この自戒の言葉は常時自分の決断を制御し続けました。(後年、スターリンの独裁政治の真相を知り驚きました。社会主義とは、ひと握りの独裁者に容易に政治権力を握られ易い、極めて不安定な政治システムであり、必ずしも現段階では優れた政治システムであるとは断言出来ないと自分なりに認識しました。しかしあの当時は、正直に言って入党した友人がまぶしく見え、自分の勇気のなさを恥かしく思いました。)

最近この自分史を学生時代の友人G氏に贈りました。G氏は「学生時代一緒に学生運動を闘った友人として、何故君は日和見主義を克服出来なかったか」という厳しい回答でした。

自己弁護と言われるかも知れませんが、「自分の足元をしっかり見つめろ」とは、自分に正直に生きること、悔いなき人生を過ごしたいという自分の哲学でした。

自分は常に自分そのものでいたかったです。権力を握ったり、自分の主義主張で人々を昂奮させたり、闘わせたり、勝ったり負けたり、そんなことに生き甲斐など感じたくなかったのです。

会社内で立身出世して経営に参加し事業に腐心する人々に対しても同じです。例えそれなりの収入が与えられるとしても自分はそんな世界に入りたいとなどとは一度も考えたことはありませんでした。

世にいう偉い人にはなりたくなかったのです。自分は自分自身が納得出来る世界に後悔することなく生活していければそれが幸せです。勿論、自分が求める「より良い人生」とは、社会から逃避して花鳥風月を楽しむ世界なんかではありません。あくまで社会の片隅に自分の生きる場所をきちんと大切にして、社会の人々と折り合い良く生きていけるそんな人生が送りたいのです。

宮本顕治氏にこんな談話があることをG氏はご存知でしょうか。

政治闘争というのは、階級闘争の中心です。党と党との争いは、社会発展の方向を集中的に示すわけですから、非常に責任があるのです。一律に党の専従になることが、政治の主導性ではありません。その点では、戦後たくさんの活動分野があって、それぞれに自分の才能に応じて参加すれば良いのです。要するに人間を豊かにする社会活動の分野で、各自が才能に応じて、自分を選べばいいんですよ。

宮本顕治氏は、人間を豊かにする社会活動を大切にしなさいと言っておられます。宮本氏の表現を借りれば、政治闘争だけが人間を豊かにする社会活動だとは言えないと思います。

1959年(昭和34年)9月26日伊勢湾台風が名古屋を襲った。午後4時激しい風と共に雨は横殴りに変った。急いで名工大自治会室を出て自宅に帰った。夜9時、暴風雨は荒れ狂い、我が家の雨戸は吹っ飛んだ。「家が倒れるぞ。外へ逃げよう」。座布団を被って、家の外に出た。トタン板や瓦が屋根の上を舞っていた。翌朝、朝刊一面に載ったのは、名古屋城落成を祝う、場違いな全面広告だった。あまりにもチグハグなお上の動きだった、名古屋市内だけで2千名の死者が出た。市は大学に死体処理緊急動員を要請してきた。自治会は連日数十名の学生を火葬場に動員し、緊急体制を組んだ。学生は身体に染込んでいく死臭に苦しんだ。しかし、自治会の指示に全学協力し、災害救援に名工大生ありと言われた。1月後、名古屋市より自治会に感謝状と共に、20万円が贈られた。この金で自治会旗を更新した。この旗は今も名古屋工大学生自治会旗として、引き継がれている。

工学部に学んだ自分には、技術者としての社会人生活が待っています。社会人になれば、今まで貧乏生活に苦労してきた母親に毎月きちんと仕送りをしてあげられる楽しみがあります。弟達の学費援助も可能です。そして何よりも、もう自分で稼げるという生活に入っていくのですから、誰にも遠慮せずに自信を持って生きていけるのです。さあ、これからは幸せになるぞ、そう自分に言い聞かせ社会人への第1歩を踏み出しました。

第4章 物づくりに生きた40年

工学部に学んだ自分は、たまたま技術革新という高度経済成長の追い風もあり、大学卒業後は希望通りの大企業に就職出来ました。入社早々の自分達に与えられた仕事は、時代の最先端を行く合成繊維ナイロンの研究でした。高槻研究所では毎日が夢みたいな新しい経験でした。当時日本の繊維産業は高分子化学という新しい学問で再武装している真っ最中であり、東南アジアを中心とする新しいフィラメント市場開拓に各社はしのぎをけずっていました。毎日の生活は実に生き甲斐がありました。鉄筋新築の独身寮は千里丘の小高い丘陵地にそびえ、窓からは生駒山の灯火が一望に見渡せました。東ドイツからナイロン紡糸技術の専門書「Synthetische Fasern aus Polyamiden」を取り寄せ、独身寮の友人達とドイツ語原書輪読会を重ねました。当時こうした最新技術のノウハウに関する技術文献は、社会主義国出版物の方が情報が高度で、かつ企業秘密というようなやっかいな制約もなく輪読テキストとして人気がありました。休日は、京都・奈良の古寺散策を楽しみ、時には六甲連山を友人達と縦走しました。充たされた青春の毎日でした。
青春時代に関しては、ここをクリックして頂くと「50年前の日記を読み返す」と題したファイルへご案内します

入社3年目の昭和40年。突然白羽の矢が立ち、初めての海外出張。台湾、香港、タイ、フィリッピンへ新しいフィラメントナイロンの加工技術を指導するひとり旅でした。まだ海外出張は世間的に珍しい時代でした。東南アジア各国は合繊フィラメントはこれからという成長初期の段階にあり、華僑資本の多くの会社では新しく登場した合成繊維ナイロンに熱い注目を集め、どの会社も、新技術修得に若い技術者の熱い情熱を感じました。昭和40年9月、マニラ湾の夕陽が美しく眺望出来るシェルボンネホテルにて、現地英字新聞を通じて、インドネシアにクーデターが勃発、インドネシア共産党は虐殺の嵐でせん滅、スカルノ大統領は軍事政権により失脚させられたと始めて知りました。マニラ湾の彼方、インドネシアの地に、今荒れ狂っているテロ大虐殺を哀しく忍びました。

インドネシアのみならず、日本国内でもこの時期を境にして政治の方向は大きく右旋回が始まりました。街頭から学生デモが消え、労働組合はどんどんと御用組合化し、他方日本列島改造論が台頭し、日本中が建設ラッシュに沸き上がり、土地の値段は急上昇し乱開発が進みました。一方、マスコミはGNP10%を誇らしく謳い続け、一般市民の政治的保守化がますます進みました。マイホーム亭主という言葉が流行語になりました。その頃から、道で行き交う人々の表情に、貧困で悩み疲れた影は次第に消え、確かに日本は豊かになっていくと実感しました。高度成長経済の勢いは、この時期、日本の国から貧しさというものを確実に追い出し始めていたと思います。「made in japan」の折り紙が世界市場を凌駕し、いずれの会社も忙しい時代でした。勿論私の会社もそうでした。

大企業の組織の中で、自分は技術者として幾つかの新しい仕事にも恵まれ、生活にも生き甲斐を実感出来ました。当時愛読した岩波新書にW・B・ウルフの「どうしたら幸福になれるか(上・下)」という小冊子があります。この本は、幸せとは、芸術を創りあげていくようなものだと教えてくれました。人生の幾つかの重要な鍵を、この本は温かく教えてくれました。仕事上で直面する人間関係も、人生の遠くを見詰めた生きがいについても、当然ながら結婚への思案も、この岩波新書によって、気持ち良く導かれ、素直に人生展開していくことが出来ました。その後、この岩波新書は絶版になって本屋の書棚から消えてしまいましたが、自分は今でも古本屋でこの本を見つければ、迷わず購入、気に入った友人に贈呈することにしています。

家内とは平凡なお見合い結婚でした。内科医である岳父の最初の言葉「西川君出世するなよ」。この一言に秘められた岳父の豊かな人生観に今も感謝しています。

新婚生活は神戸甲東園の緑豊かな高級住宅街、東洋紡の会社社宅で迎えました。2人の男の子にも恵まれ、子育て体験を通じ家内と自分とは生活価値観において極めて良く一致しているのを再確認し幸せに思っています。しかし、かっては企業実績日本一を誇った東洋紡も、繊維不況によって、急速に斜陽化の急坂を転がり始めていきました。

昭和54年、父他界の日には、たった生後13日目であった末弟西川徳三が、母の期待に応え、名大法学部卒、富士銀行東京勤務と順調にエリートコースを歩み始めた矢先、ストレスに起因する胃病手術失敗で28歳で他界。号泣する母の背中をじっと見つめ、長男である自分は母の近くに永住しようと決意。昭和55年、42歳。長く勤めた東洋紡を退社し、繊維機械から自動車産業に華麗に多角化経営の実績を上げる豊田自動織機に転職しました。この転職には随分と多くの方々のご配慮を頂き、今も感謝しています。

新しい会社では繊維機械技術部・紡績機械設計課長として紡績工場プラントエンジニアリングを担当しました。日本国内はもとより、中国や東南アジア各国に新設される紡績工場の技術専門コンサルタント。当然ながら海外出張も多く、顧客相手国の経済発展に大きく寄与出来る、やりがいある重要業務であり、喜びは、また同時に仕事の誇りでもありました。

異国でのわずかな滞在余裕時間を見つけては好きな旅スケッチを楽しめるのも喜びでした。「生産管理部門」と「繊維部門」という2つの技術部門で技術士国家資格を取得しました。フランス語、中国語、ハングルに熱中し、毎年夏休みの1週間は志賀高原で開催される日仏文化協会主催のフランス語合宿講座に出かけました。なんとかフランス語が理解出来るようになりました。中国語、ハングルは主にラジオ講座を聴いて勉強しました。ロシア語に関しては、かって敦賀工場にいたころ、敦賀市の成人学級でロシア語会話を学びましたが、定年後、JICAの仕事でウズベキスタンに技術指導で出かける機会があり、これを機にロシア語会話を集中的に再学習し、ウズベキスタンで同行した現地通訳から「西川さんのロシア語良く通じるよ」と誉められました。今も語学習得は趣味の一つで、散歩中はいつも語学テープを聴いています。

繊維機械技術部での最大テーマは、世界的な繊維機械トップメーカとして、豊田自動織機は如何に生き残っていくか、激しい技術開発競争でした。省力化を目指した自動化技術の導入とか、ニーズに応じた製品の多様化とか、他社の追従を許さない高速化技術の開発とか、毎日が緊張した連続でした。TQCデミング賞挑戦では、正に社内が一つの火の玉になったように、品質、コスト、安全が合言葉となりました。

平成3年、トヨタグループの産業技術記念舘企画でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイスなどヨーロッパ各国の博物館・美術館を調査・見学する機会を与えられました。ロンドン科学技術博物館収蔵の産業革命当時の紡績機械と原寸同一レプリカを再現し産業技術記念館に展示することが出来ました。技術史を専門とする著名な先生方にもお近づきになり産業考古学を学び、学芸員の資格も取得しました。インド・デカン高原山奥に1890年代に建設された紡績工場に今もそのまま何の改造もせずに英国プラット社オリジナル紡績機械が稼動していることを発見、そのオリジナル機械をトヨタの産業技術記念館に展示することも出来ました。完成したトヨタの産業技術記念館は、豊田佐吉翁の業績を称え、豊田喜一郎氏の情熱を称え、世界でも有数な技術史博物館として平成5年に名古屋駅前から徒歩15分の栄生にスタートしました。

定年間際の4年間は、経営情報をパソコンでビジュアル化するPCシステムを開発、お陰で、最新のパソコン操作技術をすっかりマスターし、今でもパソコン操作は得意芸の一つになっています。こうして東洋紡績と豊田自動織機を通じて、素晴らしい会社生活40年間を無事過ごすことが出来、お世話になった多くの方々に、今も感謝しています。

結果として世に言う座り心地の良い椅子、すなわち巨大な独占資本のトップ企業に身を置き、技術者として、生涯安定した生活を維持し、仕事にも生きがいを見出し、勤めあげることが出来たのは本当に幸せでした。いつも感謝しています。会社生活40年間、いろいろなことがありました。繊維不況の為、多くの友人達は、配置転換、出向、転職、退社と次々と職場を後にしていきました。斜陽化する繊維産業の夕陽を働く仲間達の後ろ姿に見てきました。中には、リストラの翌日、家族を置いたまま、蒸発失踪してしまった身近な友人もいます。そんな厳しい環境条件の中で、繊維と繊維機械の仕事を定年までずっと続けてこられたのは、一重に多くの方々のご好意とご配慮のお陰であり、心から皆様に感謝しています。

平成10年5月、平穏なサラリーマン生活に60歳の定年を迎え、息子達もそれぞれに親元から独立し、今は家内と2人静かに余生を過ごしています。決して充分ではありませんが、年金さえあれば、もう生活はなんとかやっていけますし、毎日目を覚ますのが実に待ち遠しい今日この頃です。

第5章 ベルリンの壁崩壊から学んだ現実感覚

会社生活40年、仕事に生きがいを持って専念出来たのは本当に幸せでした。たまたま最後の仕事のひとつでもあったトヨタの産業技術記念館設立の基本テーマは「物づくりの大切さ」を次世代の若者達に知ってもらいたいという願いでした。最近の高校生は工学部進学に魅力を失いつつあると聞きます。「物づくりの大切さ」を訴える哲学はこれからの日本を考える時、大変重要だと思います。確かに、「物づくり」は人間生活を豊かにします。しかし、豊かになった人間に、益々大切になってくるのは、真実の民主主義確立ではないでしょうか。

会社生活40年、中国には、技術交流会で、何十回となく出かけました。大連から広州まで、中国大陸はほとんどの地区を訪ねました。北京に近いある地方都市に党中央幹部と一緒に出かけた際の経験。その日の道路はすごい渋滞でした。党に所属する運転手は突然「中国共産党中央委員会」という一枚看板をフロントガラスに掲げるや否や、対向車線に出て、対向車線を猛烈なスピードで走り出しました。同乗の党幹部は素知らぬ顔で目をつむったままです。こんな光景は中国では日常茶飯事なのでしょう。長征を舞台にストイックな印象を与えている中国共産党にして、その実態は民衆軽視の権力政治です。

私が卒業した東京の都立目黒高校は、あのゾルゲ事件で有名な尾崎秀実氏の娘楊子さんが戦中通学されていた女学校であることを、「愛情は降る星の如く」を読んで知りました。しかしあの当時スターリンはゾルゲグループが必死で掴んだナチスドイツがソ連を電撃侵略するぞとの極秘情報を個人的判断から、即ちスターリンが締結した独ソ不可侵条約を愚弄するニセ情報であるとの独断からこれを握りつぶし、結果としてソ連はナチスから甚大な敗北を被った歴史があります。これは明らかに独裁者スターリンの責任です。社会主義は、ひと握りの独裁者が容易に政治権力を握り易い政治システムです。スターリンの犯した粛清という名の暴虐も、あの国に民主主義が充分根づいていなかったという歴史の悲劇があったからだと考えています。民主主義が確立されていない遅れた国に、早すぎた社会主義。これがその後のソ連の悲劇の原因です。

1990年ベルリンの壁崩壊を迎え、ニセ社会主義諸国の実態が我々の目にも、はっきり見えてきました。ニセ社会主義諸国独裁者達が口にしていた人民の為の正義なんて真っ赤な嘘で、あろうことか、何千万の無実の人間を処刑していた事実に何とも言えない衝撃を受けました。悪名高いポル・ポトも社会主義の旗の下、世紀の大虐殺をやっていたのです。社会主義とは一体何であったのか、激しく怒り、哀しむ日々は今も続いています。

社会主義への情熱は今や全世界的な規模で後退しています。大変残念なことだと思います。社会主義が容易に独裁政治に結びついてしまうのは、国民の中に民主主義がしっかり根づいていないからです。国民の中にしっかりと民主主義が定着してこそ始めて本当の社会主義が可能なのです。もし民主主義が戦前の日本にもきちんと定着していたたならば、あの憎むべき軍部ファシズム台頭を国民は絶対に許さなかったでしょう。民主主義は人類史を通じてもっとも基本的な政治思想です。我々日本やヨーロッパのような先進資本主義国家で民主主義がしっかりと根づき本物になった時、我々はあらためて社会主義の素晴らしさに注目し、社会主義を志向していく時代がやって来るでしょう。しかし、それまでに我々が為すべきことは身近に真実の民主主義を根づかせることです。お尋ねします。我々の身近な生活の原点に、民主主義は本当に確立されているのでしょうか。

日本国内何れの企業も管理職は、反共をむねとすべしという風潮が企業風土として根づいています。その中でも反共を頑固に唱えているのは、今やリストラ対象者にされている中高年管理職の方々に多いのは何故でしょうか。中高年管理職は反共=保身とでも考えていらしゃるのではありませんか。しかし最近の若い管理職の中には必ずしもこのような風土に同調しない、勇気ある管理職も登場してきています。彼等は、憲法で保障されている民主主義の精神は、職場でもきちんと確立していくべきだと考えています。憲法で保障されている民主主義の精神を、身近な職場生活の中に、きちんと確立していこうとする若い人々に心より拍手を送ります。

第6章 より良い人生とは

かって我々の思想原点は貧しさからの解放にありました。しかし最近たて続けに起きる青少年問題の背景には、何故か経済的貧困の影はどこにも見当たりません。もう貧しさが青少年の前途を立ちふさいでいる時代は終わったようです。青少年は物量の貧しさからではなく、心の貧しさから次々と恐ろしい事件を起しています。今大切なのは、心の貧しさから青少年を如何に救うかが緊急な問題となっています。

最近、幾つかの心理学の本を読んでいます。その中でも、自分はオーストリアの精神科医、アルフレッド・アドラーが確立した「個人心理学」に最も注目しています。「個人心理学」とは、私が、生涯の必読書としてきた岩波新書のW・B・ウルフの名著「どうしたら幸福になれるか(上・下)」に流れている、人生とは芸術であるとの考え方を支えている思想体系です。アルフレッド・アドラーの視点とは、人類の長い洞窟生活の歴史を通じ、仲間から孤立して暗闇の中に脅えていた人には、幸福はつかめない。幸福な人とは、仲間と一緒になってかがり火を囲み、心の緊張を解放出来る人だとする考え方です。すなわちお互いの弱さを補償しあう共同体感覚を素直に身に付けた人間だけが、幸福であり得るという洞察から出発したこの「個人心理学」に今自分は強い関心を寄せています。

思えば少年時代、貧しさからの解放こそが最大関心事でした。貧しさは資本主義の矛盾から発生すると知りました。ベルリンの壁崩壊後、ニセ社会主義国の正体は大きな衝撃でした。どうしたら幸福になれるか、私にはまだまだ納得出来る結論には至っていません。

「幸せ」という価値判断が在るとするならば、正直に言って自分は今とっても[幸せ]です。しかし、「幸せ」という価値判断はあくまで主観的な価値観です。さらに一歩進んで、「より良い人生とは何か」という新しい問題提起で自分自身を見詰め直し、客観的視点に立って、自分の全生活を再評価すべきでしょう。

定年後、パソコン取得を契機に、情報化社会への時代転換の波を追いかけるように、「旅スケッチと読書ノート」をテーマとするホームページを発信、1冊1冊の本に自分がどう感じたか、克明に読書記録を執筆しすでに1000冊以上の読書ノートをホームページに掲載し、述べ10万人以上の方々にHP訪問を頂きました

サラリーマン時代には読めなかったあらゆる分野の本を、今はとにかく自由に読み漁ることが出来ます。こんな素晴らしい、幸福な時間は70年間の我が人生始めての経験です。

今は朝目を覚ますのが何よりも待ち遠しい、楽しみな毎日です。

第7章 貴方はどんな人生を

昭和13年東京中野区に生まれる。戦争の為、愛知県に疎開。小学6年の秋、父胃病の為他界、中学時代は貧困との闘いだった。貧困から脱出する道はどこにあるのか、高校、大学と社会科学に強い関心を持ち続け、本も読んだし、学生運動にも参加した。しかし友人達のあとを追って、実践活動の坂道を登っていく勇気はなかった。「自分を見詰めよ!もっと足元をしっかり見詰めよ!」自戒の言葉は常に自分を制御し、平穏な人生選択が自分の求めた最終結論だった。昭和37年名古屋工業大学卒業、東洋紡績、豊田自動織機と日本のトップ企業に席を置き、仕事、結婚、家庭にも恵まれ、平成10年定年退職を無事迎えた。自分の人生選択は本当にこれで良かったのだろうか。いつも自分の選択を肯定しつつ、他方では自分のずるさに嫌悪感を感じつつ、ここまで歩いて来てしまった。自分は本来ならば どんな人生を選択すべきだったのだろうか、今あらためて自分の一生を振り返り、もし自分に真実の勇気があったら、自分はどんな人生を選択すべきだったろうかと思い巡らす、そんな定年後の自分です。

好きな本を読み、[旅スケッチと読書ノート]をテーマにホームページを発信、こんな毎日がすごく気に入っています。しかし、もし或る日突然、主治医から「貴方はがんですよ」と死の宣告を受けたとしたら(ゴメンナサイ!がん必ずしも死の宣告ではありません。がん宣告とは闘いの始まり宣言であり、決して死の宣告とは無縁です!)、その時 自分はどんなイキザマを見せるのだろうか?そんな冷やかし半分の気分でいた矢先、突然主治医から「西川さん、がんの疑いがありますね」と指摘され、2003年6月豊田総合病院で大腸がん手術を受けることになってしまった。お陰さまで術後経過はすこぶる順調であったが、しかし、その6ヶ月後の2004年1月6日最愛の妻 孝子を乳がんで失うことになる。「妻の大往生」と「我が再生宣言」、この2つのこころの叫びは、僕の人生にとって文字通り涙の道標となってしまった。「旅スケッチと読書ノートのホームページ」は、今の僕にとっては晩年の一歩一歩を歩いていく方向を教えてくれる貴重なこころの支えとなっている。現在の僕にとって、このホームページこそ、生きる勇気を与えてくれる貴重な道標であり、こころの杖でもある。

貴方はどんな人生を歩いて来られましたか?

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