定年後の読書ノートより
日は輝けり、宮本百合子著、1917年、百合子全集第1巻
「貧しき人々の群」にて坪内逍遥から天才少女として紹介された彼女の作品にしては、第2作は決して誉められた作品ではなかった。

明治維新後の東京、かっては東北で家老を勤めた家柄の浩。今は没落武士の一人息子、店の商売見習いでせっせと働く浩には、貧乏から脱出する道すら見つけ出せない父、孝之助、病弱な身で婚家からも疎んじられる姉お咲く、父に絶対的に屈することしか出来ない母おらく、そして矢張り父親の冤罪から職場を追われた同僚、康之助、皆それぞれに人生をもがいて苦しみつつ、しかしずるずると破綻に落ちていく。そこには人生の陰気な暗い沼底しか見えない。どうしようもない人々の地獄、そして終末、浩は総ては不幸、わずかに生き残った樹木さえ次第に死んでいく生活に絶望しながら、いつの日か再起の日が来る事を信じて、鍬をとれ!勇ましく!我が若者よ!とさけばせて終わる。

未だ人間を知らない18歳の金持ち娘が本で学んだトルストイ文学の世界を一生懸命、明治の世にシミュレーションして描き出したまでである。読む者には何故突然、鍬をとれ!勇ましく!我が若者よ!なのか理解出来ない。勿論その感動も沸いてこない。むしろ中条百合子とは人間を知らない、人間の複雑な内面を描ききれないが故に、筋書きだけを紙芝居の如く、これでもか、これでもかと次々と読者に押し付けてくる安物の作家の一人に過ぎないのかと思わせてしまう。小説とはこんなものではない。複雑な人間の、どうにも出来ない状況からある一つの方向にテーマはしぼられ、開け行く世界の美しさ、素晴らしさに感動するのであって、最初に人間がきちんと生々しく作者に把握されていなくては、何の感動も沸いてこないものだと思う。

宮本百合子には悩み抜く人間は描けないと以前何処かで読んだことがあるが、この作品の世界に関する限りそう評されてもやもう得ない。この作品世界を破らない限り彼女の作品には魅力はない。

ここをクリックすると読書目次に戻ります