定年後の読書ノートより

カチンの森とワルシャワ蜂起、世界史17、岩波ブックレット
1939/8独ソ不可侵条約締結。1939/9ドイツ軍ポーランド侵攻、第2次世界大戦勃発。ポーランド領土をソ連とドイツで2分割、独ソ不可侵条約秘密協定に基く。1941年独ソ開戦。1942年ベルリン放送、カチンの森でポーランド人将校の他殺体発見と報道。勿論ソ連側はナチスの犯罪と主張。ポーランド亡命政府国際赤十字へ調査依頼。1944/8ワルシャワ蜂起市民20万人死亡。対岸のソ連軍市民蜂起に援助せず。10月にポーランド国内軍ドイツ軍に降伏。

問題1、カチンの森、15000名の将校銃殺死体はソ連軍の仕業か、ナチスの仕業か。

問題2、何故ビスワ川対岸まで迫ったソ連軍はワルシャワ蜂起した市民を助けなかったか

カチンの森の虐殺はソ連はあくまで、ナチスの仕業と主張した。ロンドンのポーランド亡命政府は国際赤十字に調査依頼、ソ連は亡命政府をヒットラーの死刑執行人と激しく非難。

ソ連と亡命政府は国交断絶。これはワルシャワ蜂起を見捨てたソ連の背景とも結びつく。

ニュルンベルク裁判でもカチンの森事件は闇に葬られた。戦後共産政権となったポーランドではカチンの森はタブーとされ、真相解明はされないままに続いていた。

カチンの森はソ連KGBの虐殺であると1990年ゴルバチョフが認め、謝罪。

1920年ポーランド・ソ連戦争でソ連は敗れ、かなりの領土をポーランドに割譲。スターリンはポーランドに復讐執念をもつ。1939年ポーランドに侵攻したソ連は、占領した東方領土に親ソ的な軍隊を置きたい、この際反ソ的なポーランド将校を抹消して置きたいと考え、自国の安全保障の観点から反ソ将校の虐殺を実施したと考えるのが妥当。

同じように、ワルシャワ蜂起は、ポーランド国内の共産ゲリラではなく、亡命政府側のゲリラに指導されたワルシャワ蜂起は、これを援助すれば、将来亡命政府発言権を強めることになると計算して、亡命政府を側面から援助するワルシャワ蜂起支援はしなかった。その結果、亡命政府は孤立無援の国内軍を失い、戦後のポーランドを共産党政権に奪われる結果となる。

崩壊したソ連のポーランドにおける犯罪の影には、自国の利益のみを狙うソ連共産党指導による軍国主義的悪体質が伺われ、これがどうして民族自決、国際平和主義等きれいごとを並べるソ連共産党などと言い得るか怒りを感ずる。ソ連の正体見たりという結論。この自国優先理念は日本の北方領土問題にしても、そして戦後の日本兵抑留問題にも根底で結びついている。このソ連の体質がもし社会主義という権力機構の問題から生じているとすれば、鷲田小弥太氏の主張する如き、社会主義復活の夢は許してはならないと考えるべきだろう。しかし、もし、社会主義成立の前に、人民の民主主義が十分に成長していれば、もうソ連のような共産党独裁による権力支配は出来ないのではないか、目下自分は人民が成長した民主主義の力に期待する思考を続けている。

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