定年後の読書ノートより

歴史の道を歩く、今谷 明 著、岩波新書
今谷氏は横浜市大歴史学教授。岩波新書からは「武家と天皇」を出版。「私の唯一の趣味は道を歩くこと。学生時代から京都北山や若狭越えなど、近辺の峠道をほっつき歩いて来ました。歴史の現場に立ってみたい、そんな要求で歩くのです」

氏は確かに日本全国つぶさに歩いている。しかも、司馬遼太郎の如き、大きな歴史的本目街道を歩くのではなく、今では忘れられた人も通わない峠道を、熊笹をかき分けて、体力に物を言わせて、必死に歩き通す。北は北海道から南は中国ウルムチまで、歴史の急激な転換点を道に感じて歩き続ける現場体験。歴史の切迫した雰囲気は、この道を必死で走り抜けた先人達を思いはせれば感動がまたひとしお。

面白い話のひとつ、佐々成政越中さらさら越の話。1584年、織田信長の後継をねらう豊臣秀吉は、小牧・長久手の戦いで、徳川家康と激しい戦いを繰り広げた。徳川家康は、かねて前田利家と険悪な関係にあると見抜いていた富山城主佐々成政に対し、秀吉の背後を衝けと前田利家攻撃を要請、佐々は困難な戦いを前田利家と重ねていた。そんな時、突然、徳川家康と豊臣秀吉和議申し立ての話を耳にした佐々成政激怒し100名の部下を連れて、なんと雪中の立山を超えて、浜松の徳川家康に戦争継続を訴えて来た。徳川家康側の歴史文書には、佐々成政12月25日浜松着とあるから、正に雪中さらさら越え。戦国大名、佐々成政はどのようにして雪の立山さらさら越を強行したのか、今谷先生この古道を夏の8月歩いてみた。

京大学生時代のこと、まだ黒四ダムは建設中。関西電力黒四バスに乗って扇沢まで至り、1670m大沢小屋に登る。稜線の右側は岩だらけの急斜面。左側もV字谷。針の木小屋にはまだ万年雪が深い。滑り落ちたら谷底だ。ブッシュをかき分けやっとのことで、雄大な黒部湖の水面を眼下に見てホっとする。この難所を成政達は真冬の雪中どうやって通り抜けたのか、ただひたすらに、徳川家康に翻意を促す為だけの思い。しかし奇跡のアルプス越えにもかかわらず、徳川家康の回答はつれないものだった。そして失意のうちに、ふたたびさらさら越えを果たし富山に戻った佐々成政に待っていた運命は、追いつめられた自殺であったとは。

富山・長野県境にあって、日本アルプスをまたぎ越す針ノ木峠は海抜2536m、日本最高地点の峠を、戦国大名佐々成政は、厳寒期、主従100名余のラッセル部隊で通過した史実。

さらさら越えとは、小鳶谷より立山山脈を越え、黒部川の縦谷を横絶し、針木峠を登り、信州北安曇郡仁科に通ずる峠越えをいう。無双の絶険である。

歴史の道を歩く。それは深い感動を読む者に与え続ける。

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