NHK人間ドキュメントー2000年11月15日放映
心の音を奏でたいーピアニスト梯 剛之 ―NHK人間ドキュメント
晩秋のワルシャワ、ショパンピアノコンクールに1人の盲目ピアニストが出場した。梯 剛之。盲目の青年は、盲目であるが故に、父や兄弟とも別れ、母と共にウィーンに10年間ものピアノ人生を過ごしてきた。静かに弾きはじめるショパン・プレリュード「雨だれ」。澄んだ音色、心にしみる静かな響き。この日までに彼が重ねた23年間の人生を象徴するかの如き一つ一つの音に秘められた深い思い。幼くして両目を小児ガンで失い、ベッドで始めて聴いたコルトーのショパンに衝撃を受け、もう1度最初からやり直そうと決意、その演奏技術を心で学び取ろうと、母と共にひたすらに努めた10年間。

軟らかなタッチから紡ぎ出される音楽に自然の光を感じ、母を通じてコルトーからその技を全身で学んできた盲目のピアニスト梯 剛之。

第1次予選。94人の中から選ばれる38人。盲目の彼は、白鍵の位置を、黒鍵で事前確認し、始めて白鍵を叩く動作を繰り返す。プレリュード「木枯らし」のリズム転換では2オクターブ高く飛んで鍵盤を叩く瞬間があり、間違って黒鍵を叩いてミス。しかし、結果は第1次予選通過。そして第2次予選に。

彼には第3次予選で弾きたい曲があった。ショパン「葬送行進曲」。ガン再発の恐怖は彼はいつも死との対決を強いられてきた。回避したい死の世界。しかし結核に侵されていたショパンは、生と死への思いをこの曲に秘している。「葬送行進曲」を如何に奏でるか、それは自分のショパンへの思いでもあり、生きる心そのものをピアノに奏でることでもある。

第2次予選、スケルツォ2番、極めて早く。しかし彼はゆっくりと、弾きはじめる。何よりも音の響きを聴衆に届けたい。彼が心がけたかったのは、心が暖まる音楽を聴衆に聴いて欲しかったこと。音楽は心の表現、自然と触れ合って、命の共有が出来た時、自分にはピアノを弾く一番幸せな瞬間を実感出来るのです、と盲目のピアニスト梯 剛之は語る。満場の聴衆は祈りにも似た梯 剛之の音を、手を合わせ、神への接近として引き込まれるように聴いた。

結果は、楽譜に従わなかったとした審査員によって、不合格。しかし、魅せられた聴衆は、翌日ワルシャワに小さなコンサートを開いて、彼のショパン「葬送行進曲」を聴いた。そこには梯 剛之が感じる、生きる喜びを表現しようとしたショパン「葬送行進曲」だった。

そして、音楽会最後の日、盲目のピアニスト梯 剛之に、ワルシャワの聴衆は特別賞を贈った。そこに書かれた文章は「貴方の豊かな心と聴衆との深い結びつきを称えます」。晩秋のワルシャワ、生きる喜びを実感する母と子。

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