定年後の読書ノートより
夏目漱石を読む、小森洋一、岩波ブックレット
何故夏目漱石が後世の我々にこれほどまでに読まれるのか。読者は漱石の人生に、引き裂かれた2極分解を見て、そこに何か自分でも言いたくなるような気持ちにさせられるからに外ならない。

すでに「帝国主義」の段階に入った大英帝国で「近代化」を見つめ、「自由、平等、友愛を掲げた個人主義」を見つめながら、「個人の上に大きくのしかかる国家」を意識した夏目漱石、最初の引き裂き。20世紀に生きる人間は決してこの状況を超越することはできない。個人はあくまでこの状況を批判しつづけることを選ぶのみ。

夏目金之助という個人は、塩原家と夏目家の間であたかも金で売買されたかの如き引き裂き。「個人の個性」とは崇高ではなかった。「金之助」から「漱石」への置き換えにこそ、氏の引き裂きを我々は観ることができる。

親友子規臨終に際し、子規が待ち望んだロンドンからの金之助の返事をどうしても書けなかった負い目は、漱石を生涯苦しめた。親友子規の「個性」を意図せずに「踏みつけて」しまった後悔は生涯漱石を苦しめた。

東京帝国大学教授の席から、朝日新聞に転身した経過は、「漱石」という商品を「大学屋」から「新聞屋」へと売り渡したと淡々と語る。「国家」から自由になり、「国家」を見つめようとした漱石。「思想家」漱石と「小説家」漱石。「ドイツ観念論」への「イギリス経験論」からの批判。「精神と肉体」に関する一元論か二元論かの間で、大きく揺れ動く。世界は生成変化する運動の連続としてとらえるべきだ、アインシュタイン相対性理論を寺田寅彦に紹介した漱石。「三四郎」ではフロイトの意識と無意識の間からみる現実に関して読者に問題を喚起しながら、そこまでに留まっている。

漱石は私的所有と貨幣の問題をすべての小説の根底に据えながら、自ら明確な答えを出そうとはしていない。漱石はカールマルクスを通じ、「貨幣と商品」の問題、「貧富の差と階級制度」の資本主義的真実を見つめようとしてはいたが、彼の足はそこまでであった。漱石の小説には、進化論的発展はない。「漱石」という場が、二つの極へ分離しようとする力と、一つの力であろうとするか桔抗の中で終わっている。読者はそこに近代知識人の葛藤を観て、自分も何か言いたくなる。漱石の作品とはそういう魅力を持っている。

ここをクリックすると読書目次に戻ります