定年後の読書ノートより

いま社会主義を考える、鷲田小弥太、三一書房新書版、1991/5月初版
この本の裏表紙に鷲田氏の顔写真が載っている。丸顔で肥満型。素直で大人しそうなマジメ顔。哲学の先生というよりは、万年フリーターといった内向的な顔。

この新書版前半は社会主義解体の本質的な意味解明(全13講)、後半は社会主義の可能性(全7講)について書かれている。

民主主義の基本原理は第3講で論じられている。

第1原理;個人は自由である。個人を社会や国家より優位に置き、自己保存を肯定します。第2原理;個人は平等である。自然状態に於いて個人は、精神的肉体的諸能力において平等である。第3原理;個人と生命の不可侵。自然状態の中で、個人は自分の自然要求に従って行動します。自由な要求の発現は、やがて衝突する。個人は理性を働かせて、各人の個人的力の行使を停止し、第3者(国家)に譲り渡し、国家権力により、自己欲を制限する社会契約をする。これが民主主義の多数者支配である。

マルクスはこの原理の虚構を糾弾し、人間の本質は個々の個人に内属しない。それは社会的諸関係の総和であると指摘したのです。マルクスは自己欲の発動が生存競争を生み出す。自己欲発動の制限は均衡が破られる。だから、自己欲の無制限な発現の必要のない社会状態を生み出す、「私的所有」の廃止であると説いたのです。勿論共産主義といえども、私的所有廃止が目的ではなく、自由・平等・友愛の実現こそが目的です。

「社会主義の理念とその解体」は、第8講で論じられている。

マルクスは経済的搾取、政治的抑圧、イデオロギー支配のない、資本主義の敵対的な諸矛盾の解決「形式」を諸理念とした社会総体を、すなわち資本主義の否定形の上に打立てられた社会理念を将来の確立目標としています。

しかし、私(鷲田氏のこと)自身は、「…・でない」という否定形を根拠にして、「…でないもの」を構成要素として社会総体を推論する思考法を、魅力はあるが、たいそう危険なものとみなします。マルクスは自分を空想的社会主義とは別物であるとみなしましたが、この思考法は、正真正銘のユートピア的です。

理念は必要です。しかし理念がまさにフィクションであることを承知したうえでのことです。例えば「友情」は理念として実現するものだといっても、もしそれが本当に実現したら耐えられませんね。ヘーゲルの弟子であるマルクスは、現実の矛盾の中に解決されるべき理念を見出す弁証法的思考の持ち主でした。このような思考法自体の中に、社会主義論の大いなる錯誤の原因があるのです

資本主義の否定から導き出された社会主義理念が、ソ連70年の歴史からものの見事に実現しませんでした。失敗したのは、ソ連の路線逸脱であって、マルクスは潔白であるとの主張がありますが、例え過不足ないやり方で、マルクスの理念を実現しようとしても、かならず社会主義的実験は失敗します。根本的欠陥がマルクスの社会主義にあるからです。

こうした書き方で、読者を引き込んでいく。論法はしっかりしている。感情的な反共雑文とはちょっと違う。氏は大阪大学博士過程で10年間以上マルクス主義哲学を専攻して、ただ飯を食べてきているから、西欧近代哲学原典もしっかり読みこんでいる。しかも人一倍好奇心豊かな情熱家だ。こうした基礎の上に、鷲田氏独特の論点を築きあげている。立花隆氏は「自分はこんな本を読んできた」という本を覗いてみても、立花氏はあまりマルクス原典には目を通していない。しかし鷲田氏は違う。ヘーゲル、カントの難解な哲学書を原文でしっかり読み込んでいるし、マルクス主義の哲学書はその殆どを読み込んでいる。この人が堂々とマルクスを否定し続け、一方では精力的に大衆通俗書をどんどんと書きまくるのだから、これはちょっと容易ではない。

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