1952(昭和27)年    14歳中学生   母37歳 姉16歳 次弟12歳 37歳 末弟2

 

現在 自分の手元にある一番古い日記帳は、今から56年前の昭和27年(1952年)中学1年から2年生の時に書いた、すでにセピア色に変色した小冊子である。小学6年生の秋に父を亡くし、5人兄弟の長男である自分は、名古屋で製菓業を営む叔父の家から、製菓業を手伝いながら、名古屋市立天神山中学校へ通うことになった。

 

当時の自分の生活断面は、自分史として別にまとめたものがありますので、どうぞその自分史から読んで下さい。

 

初めて伯父の家で働き始めたのは中学1年13歳の時、母はまだ36歳の未亡人、姉は15歳の中学生、次弟は11歳小学5年生、3男は6歳の小学入学前、末弟は1歳の血乳飲み子だった。

 

日記の冒頭、年初に当たりこんな誓いを書いている。

 

昭和27年、貧苦は襲いかかり、我々は苦しめられ、これをどう切り拓くのか。母の力。僕も努める。「尚武は良く働く」と言われるように。死に物狂いに。勉強そして労働!。弟達は淋しさと悲しさから少々ひにくれているところもある。しかし少年よ!大志大なれ!生きることに希望を持とう!進むのだ!進め!進め!

 

けなげな少年の自分を奮い立たせようとする言葉に我ながら涙が溢れる。しかし、1年間の日記をつぶさに読むと、親元を離れ、不衛生な職場環境の下、小僧生活を重ねることがどれ程少年にとって大変だったか、日記からその姿が忍ばれる。

 

ああ、自分ひとりが、食べて、寝て、中学校へ行くだけで、これほどまでに働かなくてはならないのか!ああ、身体がだるい!朝は6時に起こされすぐ仕事。学校はいつも登校時間ぎりぎりにしか、行かせてもらえない。帰ればすぐ仕事。仕事が終っても、仕事場の後かたづけ、風呂焚き、明日の準備で、仕事場を出るのは10時になってしまう。ああ、生きることはいやだ!此の頃は、苦しくなってくると、死の道を考えるようになった。どうしてこうなったのか、自分でも判らない。自分が自分を嫌いになっていくようだ」と2月28日の日記に書いている。この頃はまだ中学1年生だ。

 

少年のこころを正直に綴った1月7日の日記の全文。「僕は実に淋しい。悲しい。なんて辛い人生を送るのだろう。母も弟たちも、父一人の死によって、我々は乞食の様に、人々からは見下げられ、僕自身も他人の力にすがって、こうして中学に通う。ああ他人に育ててもらうことがどんなに辛いことか!僕の後に続く弟たちよ。お前達は、もうこの苦しさを絶対に味合うな!自分の力で生きよ!生きてくれ!お願いだ!

 

僕は、成人してからこの日記を再読し、自分はどんなことがあっても 子供達が大きくなるまでは、絶対に早死にはしないぞと自分自身に誓い、自分の健康維持には人一倍気を使った。

 

時々帰宅時間が遅くなると、伯父にはひどく叱られた。1月21日の日記にはこう書いている。「ああ、僕はもう学級委員を辞退しようかと、母に手紙で相談する積りである。今日も、生徒自治会の為、帰宅が5時20分まで遅くなってしまったら、叔父さんにきつく叱られた。この世の中は面白くない。何のために生きているのだ。何もかもいやになっていく。全てを破壊したい」と。

 

そうしたひとりの中学生に、いつも心の拠り所となったのは、遠く離れた母親の面影だった。母のことは日記に何度でも出てくる。1月20日にはこんな日記を書いている。「昨夜不吉な夢を見てしまった。母がこじき姿で、床につき、水枕をつかって、頭を冷やしているのだ。母はこれが最期だという。夢からさめて僕は思った。いま母は、僕達の為に苦労をどのくらいしておられるのだろう。大晦日の母の姿を思い出せば、母の苦労はよく判る。母の苦労はまだまだこれから長く続く。いつの日か、きっと兄弟力合わせて立派に恩返しをしよう!

 

ひとりの中学生は、自分の将来が見えないいらだちを9月23日の日記にこんな文章でしるしている。「彼岸になっても、アンダーシャツだけでは、寒くなってきた。俺の人生で 雲ひとつない快晴の日は、将来本当に訪れるのだろうか。もしや、永遠に、小さな工場の片隅に ひとりの職工として終ってしまうのではなかろうか。

 

 

そんな学校生活の中で、担任の岡崎先生は僕のことを細かく気を使って下さった。しかし、岡崎先生も今はもういない。1月12日の日記にこんな文章があった。「世の中は、決して僕を置いてきぼりにはしない。岡崎先生が、「君これを上げる。皆には黙っていらっしゃい」と30円もする映画の券を下さった。僕は嬉しかった。映画というよりも、先生の心遣いが。

 

学校の成績は、予習復習が不充分の割りには、まあまあの成績だった。3月7日の日記。「学校まで走っていく。試験も明日1日で終わり。今振り返ってみると、3学期は少し、悪くなっていると思う。一学期、二学期はオール5だったけれども3学期はきっと4が、2つ、3つ入るかも知れない。しかし、2年生になったら、しっかり勉強してオール5を目指そう。

 

周囲の友人達に比較して、自分は中学2年生としての、素直さに欠けているのではないか、そんな疑問を綴った日記もある。8月7日「俺は先日から悲しい気持ちの中にある。それは子供らしい側面が、僕の中には欠けているからだ。素直な子供こそ、この世で一番美しく、豊かなものであるのに、僕は、もう大人という世界の中にあまりにも早く入り過ぎている。

 

仕事の小僧さんたちと常に一緒に生活している自分に、焦りを感じて始めているときもあった。8月25日の日記から。「尚武、お前はその立場から立ち上がれ、そして向かうのだ。尚武、尚武、おどおどしていては駄目だぞ。尚武、尚武、そんなにゴロゴロしている仲間達と、一緒に遊んでいては駄目だぞ。自分に悔しさを持つなら立ち上れ、尚武よ。

 

3ヶ月に1度は、母の元に帰った。母こそは、自分の生きる力だった。その母も今はもういない。4月4日の日記から。「僕には母がいると思うと、ものすごく嬉しい。母は、夜は12時までも、徹夜で針仕事に頑張り、朝は早いし、身体がもたないとつぶやく。その上、徳三は夜中に起きて、泣き叫ぶ。僕の今の苦労に比較して、母の苦労は何十倍も大変なのだ。昼、母は目玉焼きの大胡馳走を作ってくれたが、母は食べず、子供達に食べさせる。僕も早く就職して母を楽にしてあげたい。帰途、弟たちは、僕の出発を名残惜しそうに駅まで見送ってくれた。

 

しかし、やはり離れて暮す兄を、末弟は誰かが判らない。ある日、末弟が名古屋の仕事場に来ても、兄である僕の顔を見ても、兄だと判らず、そんな自分を不憫に思いこんな日記を書いている。「母と2歳になった徳三がやって来た。徳三は随分大きくなったものだ。しかし、悔しいことに、叔父や叔母たちは、母が可愛そうだと、見下げる姿勢で接するので、母は小さくなっている。実に口惜しい。父一人が死んだために、このように残されたものは、苦しみ、また生きていくために、耐え抜かねばならないのか。母は黙って風呂焚きをしていた。徳三は僕を見ても、誰だか判らず、まごつき泣きじゃくる。僕は悲しくなった。ああ、兄を見ても、兄と判らない徳三よ。弟たちだけには、この悲しさを味合わせたくない。兄弟が離れて暮らすなんてあまりにも残酷だ。

 

そんな、徳三も名大法学部、富士銀行東京勤務と順調なエリートコースを歩み始めた矢先の28歳の冬、突然胃病手術の失敗で、還らぬ人となってしまった。

 

当時中学2年の少年にとって、関心があるのは、自分の生活周囲のことばかりで、大きく社会ニュースが日記に出てきたのは、1952年4月28日講和条約調印の記事に感動したくらいである。「僕が今こうしてペンを執る瞬間もわくわくしてならないのは、日本がいよいよ独立したことだ。独立!独立!と心は叫ぶ。夢のようだ。僕は楽しい。思えば戦争で東京を追い出され、空襲では多くの人々が犠牲者となった。あの憎むべき戦争も、本日10時30分に終ったのだ。ひるがえる日章旗。すみきった青空。ああ世界は広い。いよいよ世界へ乗り込んでいく日本。ああ日本よ!尚武よ!

 

 

昭和27年(1952年)の日記帳は自分が持っている一番古い日記帳であるが、同時に悲しい日記帳でもある。自分は、辛いとき、苦しいとき、この小さな日記帳を読み返し、自分の出発点はこんな苦労から始まったのだと思い、自己を奮い立たせてきた。  (昭和27年終わり)

 

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