1953(昭和28)年   15歳、中学3年生

 

母38歳、 姉17歳高校2年  次弟13歳中学1年  3男8歳小学2年  末弟3歳

 

昭和28年、勿論この年も、自分は母や兄弟の元を離れて、叔父の家で働いていた。正月だけは、名古屋市郊外大高の母の家に帰った。正月日記の書き出し。「真っ赤に燃える朝焼けの中、弟東亜雄の後について、一緒に朝刊を配達するのが、1953年始めての僕の姿だ。この昭和28年の1年間に自分の身辺に何が起ころうとしているのか。学校のこと、家のこと、仕事のこと 思いめぐらす。

 

昭和28年、景気が大きく変動、叔父の事業も決して順調ではなかった。数日間取り組む仕事がなかったり、やっと仕事が入って、活気を取り戻す職場の様子など細かく日記に書き残されている。1階に住む母の兄に当たる伯父夫婦とその一人息子、2階に住む母の弟に当たる叔父夫婦とその息子兄弟、そして住み込みの小僧さん5人、3つどもえの複雑な人間関係の中で、感情の絡み合いに独り悩む。やがて、住み込み小僧の雇用制度自体が時代の波で崩壊、小僧さんの人数も次第に減っていく。自分は、あまりにも毎朝遅刻や欠席が多く夜間中学に転校しようかと真剣に考えていた。勿論、高校進学なんて、遠い世界の夢であり、何よりも、早く就職して、母を助けたいと考えていた。一方母は、例え、大高の家を売っても、尚武を高校へ進学させたいと言ってくれていた。

 

1月20日の日記の全文。「最近の不景気は、実に困る。それに上の叔父さんも、下の伯父さんも仕事場には来ない。毎日いい加減な菓子を作り、裏2階にどんと溜め込んでいる。勝ちゃん風邪をひく。また、譲さんと友さんとべったりべったりやっている、2人はたばこ、たばことうなって、吸殻を集めている。退廃的な雰囲気とはこんな空気をいうのだろうか

 

2月16日の日記の全文「「西川 何を淋しそうな顔をしている」と岡崎先生に突然声をかけられ自分はどう答えたら良いのか判らなかった。僕の歩き方がそんなにさみしく見えるのだろうか。それとも岡崎先生の心で、そう見えるだけだろうか。いずれにしても、先生にそう聞かれて、僕は困ってしまった。心の中まで先生に見えてしまったのだろうか。

 

1年・2年担任として可愛がってくださった岡崎先生から、3年担任加藤先生になる。始業式の日、職員室に呼ばれてこんな忠告を受ける「「君にひとつ言っておきたいことがある。8の力しかないのに、12の力に見せるのはいけない。いいか。」この言葉は自分の胸にずきんときた。お前には8の力しかないんだぞと強調しているとともに、日頃お前は大した力も無いくせに、背伸びばかりしていると加藤先生は言おうとしている。加藤先生の目はするどい。しかし、この言葉を聞いたとき、本当のことを生徒にズバリと申しわたして、生徒がどう受け止めるか先生は考えて忠告しているのだろうか。

 

「8の力を12に見せるな」。この言葉は、長く少年の胸につき刺さっていた。4月11日の日記「俺の頭は最近おかしい。毎晩床の中で仲間から仕掛けられるせんずりの、やりすぎだろうか。じっとひとつのことを考え続けられないし、記憶力も弱くなっていくような気がする。大変なことになってきた。仕事が不景気の為、今年の花見は取りやめになった。伯父も儲からん儲からんと言って、どぶ酒を飲む始末だ。

 

3年生になって、生徒会の会長に立候補した。対抗者は、高木という、金持ち息子だった。校内実力テストでは、いつも同じくらいの成績順位だったが、いわゆる秀才坊ちゃんタイプには俄然ライバル意識を燃やしたくなる小生のクセ、選挙戦では真正面からぶつかった。4月14日の日記「生徒会会長とうとう当選の運びとなり、皆が祝ってくれた。当選結果、小生1168票、高木君は556票。自分は選挙に勝って嬉しいと思う気持ちと、新しく重大な責任を背負いこんだと、緊張する気持ちが複雑に交差する。」

 

この頃、次第に異性を意識し始め、隣のクラスにいた、鈴木淑子さんという、成績は素晴らしいが、母親を亡くし薄幸の家庭にありながら、テニス大会に優勝、いつも明るい彼女に密かに片思いを寄せ、遠くから憧れの目で見つめる。

 

鈴木淑子への密かな想いを綴った日記「俺も、最近勉強意欲が出てきた。閑さえあれば、できるだけ図書室に出かけ、本を読む。今日は教室交代時間に、鈴木淑子とばったり出会い、視線が合って、びっくりした。しかし、俺は スポーツはまるで駄目だし、ハンサムボーイでも無いし、金持ちでもない。鈴木淑子さんの前に出て 「友達になって下さい」などと言う勇気もない。」

 

顔について悩むのがこの年頃。「先日諸戸がこんなことを言った。「君は生徒会会長のくせに、不良連中とも、気楽に話をするし、成績悪の部落の連中とも一緒にぶらぶら歩いて、とても成績優秀者とは思えないし 何か貫禄がない。」と。最近皆の間で、「尚武、尚武」と呼び捨てにされるのも、諸戸のいう貫禄がないということなのだろうか。僕は、顔が悪いし、歯も出っ歯で 見た目も良くない。だから貫禄がないと言われるのだろうか。」

 

4月29日の日記「学校へ行こうと服まで着替え、出かけようとしていたら、伯父が2階まで上がってきて、今日は仕事が忙しいから学校は休めという。しかし、突然こうして学校を休むのはつらい。

 

5月2日の日記「昨日寝たのが夜中の2時。それまで仕事。そして今朝起こされたのが6時。たった4時間の睡眠、頭がずきん、ずきんとする。そんな体調の中、「尚武、今日も学校は休め」の命令だ。俺は悔やしかったが、仕方がない。午後学校懐かしさに、お使いの途中に学校の近くに行ってみて、学校を見てきた。やはり校舎を見て、学校が懐かしくなった。

 

5月19日の日記は、長いものとなっている。隣に座った女学生に対するときめきを綴ったもので、今から読むとなんて初々しい日記を書いていたかと、恥ずかしくなる。

今日しみじみ味わった少年としての喜びと、興奮をここに記録しておきたい。映画「シンデレラ姫」が終わって、場内が一面明るくなった時だ。

 

観客がどっと席を探しに前の方に流れ込んできた。その人ごみの間を、映画を観終わった人々が潜り抜けていく。そうした人の流れの渦の中に、川口先生を発見、川口先生はあたりをきょろきょろ見回していた。誰かを探しているようだ。僕はとっさに、被っていた帽子を隣の席に置いて、「先生、先生」と呼ぼうとした。その時、川口先生は、見知らぬ男性と一緒に席を見つけられた様子だった。私はその方ばかり気にとられ、隣に置いた帽子を忘れていた。そのとき、一人の女学生が隣の空いた席に突然立っていた。彼女は、「この席に座っても良いですか?」と声をかけ、席に座った。僕はびっくりした。隣に僕と同じ年頃の女学生が座ったのだ。そう思うだけでも、胸はどきん、どきんと波打ってくる。

 

彼女は座ってから、もじもじしていたが、時々こちらをちらりと見て、僕の襟にある「会長」のバッチを見ると、何を感じたのか、前に座っている父親とヒソヒソ話をしていた。もう僕は頭から湯気が出るくらいにカッカとしてくる。彼女はやがて胸ポケットから映画パンフレットを取り出し、見つめていたが、僕がそのパンフレットを覗きこむと、彼女はどうぞと言わぬばかりに、パンフレットをこちらに寄せてくれた。僕は、嬉しくなり、一瞬彼女を見る。白色のセーラー服に、白線を入れた黒い肩襟。きっとどこかの有名私立女学校に違いない。彼女の横顔を見る。とたんにどきりとした。僕が見ているのを知ってか、知らずか、彼女は落ち着きはらって、襟のリボンを触っていた。そして彼女の顔、すらりと、気高く流れる高い鼻、締まった口元、目はすわり、滑らかな肌は澄み切っている。あまりの美しさにそれ以上見つめることは出来なかった。「どこの学校ですか」聞きたいと思ったが聞けなかった。時々、彼女は、ため息をついて、じっとパンフレットをこちらに寄せて持ち続けている。自分も覗きこむ。そのうちに、場内電気は消えた。彼女は、そのパンフレットを小さくたたんで、きちんと、胸のちょっとふくらんだポケットに入れた。彼女はその手をひざにのせ、ニュース映画をじっと見始めた。自分はただ ぼーっとして、隣の女学生を意識し、映画のことなど、すっかり意識になかった。

 

この年の暮れ、名古屋の菓子屋丁稚生活を切り上げ、東京目黒の叔父の家に発った。東京の叔父・叔母が、僕を高校に通わせてくれるという。人生の大きな転機だった。しかし、僕の後に次弟が、また僕と同じ丁稚生活を開始し、働きながら、中学に通う。どうして弟まで、あんな生活を強いるのか、遠い地から弟の丁稚生活を心配していたが、幸い弟は、1年間で母の元に帰った。良かったと思った。



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