1957(昭和32)年      小生19歳、母42歳 姉21歳 次弟17歳 三男12歳 末弟

 

東京目黒叔父の世話で、高校3年間を過ごした。東京山の手 高級住宅街に住む伯父は、若い頃 フランスに絵画留学した日展画家であり 潤いある小市民生活は今も懐かしい思い出です。

 

実は高校3年間、日記をつける習慣がなかったので、この間については、別紙「マンガで仕上げた自分史」を是非ご覧になって下さい。

 


父亡き後母の元を離れた孤独な少年が固守した信条とは、美しく生きたい、ヒューマニズムを大切にしたいと願うならば、先ず働く者が報われる社会を作ることだという一途な思いでした。受験勉強の傍ら、次々と社会科学の本を読み漁り、やがてマルクス主義に到達し、地域の反戦活動にまで参加していく高校生活は、毎日が情熱的ではありましたが、こうした直線的な左傾化は、当時多くの学生達もそうであったように、極めて教条的であり、極端に観念的、図式的、独善的な社会史観に執着し、今から思えば随分短絡的、幼稚であったと反省しています。

 

絶対に失敗するはずはないだろうと自己過信していた大学受験に失敗し、見るも無残な精神喪失状態で東京を去り 再び、母の元に6年ぶりに帰ってきました。次弟は、貧困の為 高校進学を諦め、すでに広告業界で働いていましたし、寮母を勤める母の給与は毎月6500円と極めてわずかなものでた。末弟はまだ小学校にさえ上がらない幼子であり、1家6人6畳の寮室で寝食を共にするという、父を亡くした一家にとって大変な毎日でした。

 

浪人生活はあまりにも地獄でした。行き場のない焦りが 毎日自分を苦しめ、文字通り地獄の1年間でした。頭だけは毎日カッカと燃え上がり、抽象的な政治批判や生活批判を綿々と日記に書き続け、階級史観なるものは、益々観念的、図式的、独善的となり、目つきだけがギラギラしていく毎日でした。今から思えば、何よりも母が一番可哀相でした

 

深刻な挫折に苦しむ一人の少年は、やがてひとつの自戒の言葉にたどり着く「自分を見つめろ!もっと足元をしっかり見つめろ!」。  この貴重な自戒の言葉にやっとたどり着いたとはいえ、地獄の浪人生活から這い出ていく、その後ろ姿には壮絶たるものがあったと思います。

 

とても当時の日記は涙なくしては読み返すことは出来ません。この度、我が人生最後の身辺整理と題し パソコンを通じて50年前の日記を読み返し、人生とはこんなものさと 笑い飛ばしてみたいと目論んでみましたが、とても今の自分には、この浪人時代の日記だけは笑い飛ばす対象には出来ません。やがて自分がこの世から居なくなった後、該当するこの12ヶ月の日記だけは必ず人知れず焼却処分されることを願っています。

 

勿論 67歳になった自分には もう傷つき易い青春時代の影なんて、過ぎ去った昔話に過ぎず、どうしてそんなに12ヶ月の心の傷にこだわるのか、不審に思われるかも知れません。しかしこれは、12ヶ月だけの問題ではなく、私の生涯を通じて、生きる姿勢に関する問題なのです。結論的に申せば、階級という壁を忘れた人生論なんて、所詮現実味のない経文に過ぎません。青年にはどうすることも出来ない、所属する階級の壁を意識せずして青春は通り抜け出来ません。貧困という十字架を背負った人生出発点に立つ青年にとって、目の前の現実と、明確になっていく階級社会の矛盾の前に、どうにも出来ない自分の限界を苦しみ抜いていた1年間でした。

 

今 私は夕陽に輝く地平線に、人生最後の鐘を耳にしながら、もしもう一度人生をやり直すことができるとしたら、あの12ヶ月だけはどうしても書き直してみたい、そう今でも考えています。

 

C’est  la vie (セ・ラ・ビ)!  自虐的にも響くこの言葉は 私の好きな言葉です。

C’est  la vie (セ・ラ・ビ)! とは、フランス語で「これが人生さ」という 名セリフです。

C’est  la vie (セ・ラ・ビ)! なんて快い響きでしょう。

 

人生にはいろいろなことがありました。人生ほど、私たちを夢中にさせる舞台は、他にはありません。どんな素晴らしい文学作品も、芸術作品も、人生以上に深い感動を我々に与えることは絶対に出来ません。人生こそ、最も味わい深い 感動の舞台です。 

 

C’est  la vie! この素晴らしい言葉の響きの奥に隠された、人生の面白さをもっともって見つめてみたいと思います。 

 

人生とは、生きている本人にとっては、どんなにか苦しく、悲しい毎日であっても、振りかえってみれば、随分と味わい深いものがありますね。勿論それは本人だけが知っていることですが・・・。

 

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