1958(昭和33)年 尚武20歳 母43歳 姉22歳 次弟18歳 3男13歳 末弟7歳

 

1年の浪人生活の後、やっと名古屋工業大学に入学することが出来た。学生食堂にある床屋のオジサンさん、新入生にこんな話を聞かせてくれた。「ここの学生さんは、どこの会社からもひっぱりだこだよ。だって技術革新の時代だろ、どこの会社もここの卒業生が欲しいのよ」。この床屋談義を母に話したら、「こんな就職難の時代に有難いことだね」と喜んでいた。

 

「優秀な技術者であるとともに、立派な人格者たれ」入学式での清水学長の訓話、緊張して聞かされた。大学入学式に、母は喜んで参加した。父亡き後7年間、貧困と闘い、唯ひたすら5人の子供の成長だけを心の支えに生きてきた母を、大学の入学式に参加させてあげることは、長男としても とても嬉しく、何か恩返しが出来たような気持ちだった。

 

真新しい学生服には工大バッチを襟に、角帽と黒革靴、もう今では見かけないダサイ服装だが、当時の大学生にはこれがお決まりのスタイルだった。満員電車に乗れば、女学生が座る席をわざと探して、その前に立つ。やがて女学生が気づき、そっと上を見上げるのを意識して、やたら難しそうなドイツ語のテキストなどを取り出して読み始める。まだ角帽への憧れが、青春の夢であった時代だ。学生服以外で授業を受けることは、絶対に許さないと公言する教授も沢山いて、ある日 替えズボンで授業を受けた友人は、全員の前で、教授にすごい勢いで叱られた。今では考えられない風景である。

 

母の給与が6500円の時代、自分のアルバイトは、毎月2万円をはるかに超していた。その上、入学早々授業料全額免除の特待生認可を受けていたし、日本育英会の奨学金も貰っていたので、経済的には充分に余裕があり、毎月母へ経済的援助を続け、その支援は卒業後も、そして結婚後も続けることができた。

 

初めて学ぶドイツ語は勿論、数学も物理も化学も、極めて難しい講義内容だったので、授業は殆ど休まず出席した。帰宅途中には、鶴舞公園内にある市立図書館に立ち寄って、多くの本を読む習慣をつけた。しかし、大学1年秋頃から自治会活動が忙しくなり、次第に授業も休むくせがついてしまった。しかし、本だけは専門分野の参考書は勿論、文学から社会科学まで 随分と読んだ。

 

入学早々、学生自治会副委員長に立候補、県学連執行委員となり、日本の学生運動曲がり角と言われる第11回全学連中央大会に出席、いわゆる全学連と共産党が絶縁する歴史的な全学連分裂大会の現場に遭遇した。罵声と怒号の中、相手陣営を誹謗し、味方であるべき共産党にさえも、人民の敵、裏切り者と怒号する闘士達とは一体何者だろう、大きな衝撃だった。あの当時の闘士達は、その後次々と右傾化し、今もTVで、反共評論家として登場してくるのを観るにつけ、彼らはなんと醜い人生を送っているのかと舌打ちする。

要するに、あの中央大会は権力闘争そのものだった。どちらの革新陣営が反体制運動の指導権を握るか、激しい権力の奪い合いをやっていた。そんな醜い世界に自分の大切な学生生活を捧げるなんて、真っ平ごめん。以後、権力闘争に対して、拒否的な態度を持ち続けた。 親しい友人達は次々と日本共産党に参加していったが、自分はあの権力闘争の罵声と怒号の世界を思い浮かべ、政治世界に近づくなんてまっぴら御免と 高校時代にはあれほどあこがれていた日本共産党にさえ、常に一定の距離を置いていた。     

 

「自分を見つめろ!自分の足元をしっかり見つめろ!」浪人時代に身につけた自戒の言葉は、生涯自分の信念を制することになる。

 

学生生活4年間、好きな女性は誰もいなかった。もちろん社会人になるまで、童貞だった。こんな話を後日 友人に話したら、「へぇ学生時代を童貞で過ごす奴もいたのか、信じられん」と驚いていた。初めて女性を知ったのは、入社3年目、海外出張の命を受け 1ヶ月間東南アジア各国に巡回した時だった。海外出張なんてまだ珍しい時代、自分にとって、初体験のあの夜は 生涯 忘れられない思い出となっている。

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