1959(昭和34)年  21歳名工大2年  家族 母44歳 姉23歳 次弟19歳 314歳 末弟8

 

名古屋工業大学2年。ある教授が講義の途中に こんな言葉を差し挟んだ。「君達は 景気低迷の年に大学に入ってきた学生ですが 過去の経験によれば、こういう不況期に入学してきた学生が卒業するときは、好景気で皆さん全員大企業へ入社できるものですよ」。確かに友人たちの誰もが最大関心事としていたのは如何に大企業に就職するかだった

 

日本経済は、朝鮮特需ですっかり戦後不況を脱出し、蓄積した膨大な資本を、あらたな産業構造高度化に向けて投資ししようとし、高度成長経済の基盤は着々と固められていた。技術革新という言葉が、毎朝の新聞紙上を賑やかし、自分が大学で専攻している繊維工業は、日本資本主義産業の大黒柱として、対米輸出最大の寄与を誇り、日本中どこへいっても、繊維工場で働く女子労働者がいて、繊維産業を主体とする日本経済復興に誰もが強い期待を寄せていた。

 

高校時代読んだ一冊の詩集「機械の中の青春」によって、「よし 自分は技術者になって、繊維産業で働く仲間達と一緒に青春を謳歌し、働く人達の幸せの為に 未来に役立つ人間になろう」と決意し、「機械の中の青春」を発行した十大紡の1社であるクレハ紡績に入社することを密かな夢としていた。伊藤忠と丸紅、そしてクレハは戦前まで大建産業として同一会社であり、天然繊維からいちはやくナイロンに進出しようとしている革新的な紡績会社であることも、クレハの大きな魅力であった。

 

大学生活を支える自分のアルバイトは、県下5万の中学3年生を対象に、模擬テストを企画する中部統一学力テストの名工大キャップとして勤務し、2ヶ月に1回行われる模擬テスト業務一切を請負、収入は恵まれていた。特に面白かったのは、県下5万人の模擬テスト結果で中学生全員を順位づける極秘資料を作成する過程で、県下の教育実態にも通じ 学芸大出身者の派閥人事や、教職員労組の権力闘争など、他では入手できない現場裏情報にも通じ、多くの中学教師とも懇意にすることが出来た。

 

勤評や、警職法反対闘争はますます燃え上がり、学生集会では、実験室に閉じこもらず積極的にデモに参加しようとマイクで呼びかけてた。自治会執行部の親しい友人達は、運動の盛り上がりの中で 次々と共産党に入党していった。しかし、自分は党に対していつも一定の距離を置いていたので、入党した親しい友人達からいつも批判の的にされた。入党した友人達は、党員であるという自負の為か学生運動の中心に立ち、無党派の自分たちは次第に学生運動の周辺に追いやられた。

学生運動は、政治運動に偏向し過ぎていないか、時々ふとそんな疑問を自分自身に投げかけたこともあったが、そんな疑問を吹っ飛ばしたのは、1959年9月26日中部地方を襲った伊勢湾台風だった。大災害で混乱する現地被災処理や、うずたかく積まれた死体置場で焼却処理の先頭に立ったのは、自衛隊員ではなく、学生自治会によって動員された学生達だった。学生運動の究極の姿を伊勢湾台風救済活動の中でしっかりと目にすることができた。もう学生運動の本質論を疑うこともなかった。その後も自分は学生運動に密着し、安保反対闘争にむけて、学内のみならず、地域サークル活動にも積極的に参加し、当時流行した「経済学教科書」などの勉強会にも熱心に参加した




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