1961(昭和36)年  名工大4年 23歳  家族 母46歳、姉25歳、次弟21歳、3男16歳、末弟10歳

 

大学4年、世は合成繊維への熱が益々高まった。戦後アメリカデュポン社から入ってきたナイロン・エステル新素材は、日本の繊維業界に新時代到来の鐘を鳴らした。卒業論文は是非 高分子化学を専攻したい。強い希望は、学外での卒論研究という形で叶えられた。工業技術院名古屋工業技術試験所第3部松田博士のもとで、「放射線コバルト60照射による、ポリスチレンテレフタレートのグラフト重合」という研究テーマが与えられ、毎日、名工大ではなく、名工試に通うことになった。名工試には、日本のトップクラスの高分子化学者たちが、日夜高分子化学の研究に競っていた。その間に入って、自分も試験管を振る素晴らしい毎日が始まった。

 

4年生の春休みは、恒例の1ヶ月工場実習がある。自分はかねてからの憧れの呉羽紡績坂祝工場に工場実習申請を提出、いよいよ詩集「機械の中の青春」を書き上げた働く女性達と一緒になって、工場生活を迎えることが出来る。機械の騒音と湿気の彼方に、黙々と働く彼女達がいる。胸高まった。「僕の望みは、君達と一緒になって、働く仲間の明日を築きたいのです」。高校時代より自分の胸深く秘めていた懐かしい決意が再び思いおこされた。

 

5月、呉羽紡績人事課長の家庭訪問を受けた。母は我が家の貧困状況をユーモアを交えて何もかもしゃべった。自己調査書に「貴方の尊敬する人物は」という質問事項があった。迷わず「宮本百合子」と書いた。その理由として、あらゆる環境条件下でも、自己の思想を貫き通した誠実な人だからと付記したやがて本社から内定通知が来た

 

夏休みは、呉羽紡績高槻研究所で1ヶ月の研究実習をさせてもらった。緑広がる田園風景の中 白亜の新築3階建 呉羽紡績高槻研究所。名工試とは比べものにならないほど、最新の研究設備と贅沢な実験室。この研究所では、すでにパイロットプラントが完成し、新事業ナイロンの研究が着々と始まっていた。素晴らしい大企業に就職できた。何よりも明るく、進歩的な社風が魅力的だった。

 

入学時、教授がもらしていた如く、同期生37名全員が大企業に次々と内定、秋には全員で伊豆へ修学旅行に出かけた。帰途ひとり4年ぶりに目黒高校を訪ねてみた。高校3年の時、同じクラブにいた、あの美しい彼女は今どんな生活をしているのだろうか。東京の空の下、思わず過ぎし昔が思い出された

 

次の年の春、姉は半田輸送機工業に勤める技術者と結婚した。結婚式が偶然にも、恩師謝恩会と重なり、徳川園結婚式場から浩養園謝恩会場までタクシーを飛ばした。車窓に流れる町の風景を見つめながら、「父なき後10年、お母さん、随分と御苦労をお掛けしましたが、もうこれで大丈夫です。これからはどうぞ人生を楽しんで 長生きして下さい」と一人つぶやいた。目には一杯涙があふれ、ひとり車の中で声を出して泣いた。

 

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