1962(昭和37)年  入社1年 24歳 母47歳 弟22歳 3男17歳 末弟11歳 

 

 

昭和37年春、呉羽紡績株式会社入社。社長から全重役がずらりと並ぶ前で、大卒社員33名、一人づつ起立して抱負を述べる。自分の順番が回ってきた。「高校時代読んだ詩集「機械の中の青春」で、呉羽入社を決意していました。女子社員を紡績女工とは絶対に呼ばせないこの会社に誇りをもって働きます」。幾人かの重役がジロリとこちらを見る。「この若造、少々生意気だな」「おや、こいつはアカか」。

 

大卒社員33名、全員1ヶ月北陸・富山・庄川工場にて集合教育。大阪出発前にある重役曰く「君達はこれから釣り堀に行くようなものだよ。サオさえあれば、幾らでも釣れる。だからと言って、お調子に乗るなよ」。全員大爆笑。

 

集合教育は面白かった。ある工場幹部の話。「数年前、行幸がありました。ところが、天皇陛下到着30分前に変電所の電柱に自動車がぶつかって、工場は大停電。天皇陛下の車は刻々と近づいてくるし、工場内は真っ暗だし・・・・・」後で聞けば、自動車をぶっつけた真犯人は、なんとご本人とのこと。大阪本社企画部長の話。「株を見よ。同じ株価で、買う人もいれば、売る人もいる。どうして正反対の結論が出てくるのだ。経済予測とはこういうものよ」。ある事情通の事務課長。「大卒社員は女子社員の憧れの的ですよ。数年前も、工場診療所のベットで白昼堂々やっていた人がいましてね。さすがその人はクビになりましたがね」。

 

終業後のフォークダンスが面白い。ものすごい数の女の子が集まってきて、リズムにのって踊り出す。スピンをかける瞬間、ぐっと迫る年頃娘の豊満な肉体感。むんむんとする熱気、青春の体臭。紡績工場に入社出来てラッキーだったなあ、同期生 誰もがそう思った。

 

1ヶ月の集合教育が終わり、大阪本社から人事部長がやってきて、勤務地辞令交付。なんと自分は憧れの大阪高槻研究所ナイロンチームに配属ではないか。嬉しかった。早速母に大阪高槻研究所勤務の吉報を送る。仕送り同封。月給23,000円 仕送8,000円。

 

高槻研究所、ナイロン企業化プロジェクト・チームに配属。仕事は実に楽しかった。偉い博士連中がずらりと前列に座る所内研究発表会。難しい研究発表を聞くたびに、内容はさっぱり判らないが、ああ、自分も、こんなむつかしそうな、研究発表を聞かせてもらって幸せだなあ。ひとり満面の笑みを浮かべる。

 

研究所独身寮は千里丘陵地帯、小高い丘の上に、白亜のガラス張り。 大きな窓からは遠く生駒山の夜景が美しく眺望できた。芝生に囲まれた広大な庭には、テニスコートが幾つもあって、日曜日の朝は快音が響く。寮の横手、丘の下方には、水のきれいな池が広がり、緑に囲まれた林の向こうに建設中の名神高速道路が見え隠れする。

 

ドイツ・チンマー社の技術指導による敦賀ナイロン工場操業開始もいよいよ間直に迫ってきた。研究所の上司達は次々とドイツ・チンマー社へ出張する。研究所のパイロットプラントでは、時々3交替で試験紡糸が繰り返された。自分はノズルから紡糸された糸を巻き取る延伸部門に配属された。合成繊維ナイロンの研究は大好きだった。紡糸工場のあの匂いも堪らなく好きだった。幸せな社会人生活出発だった

 

 



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