1963(昭和38)年 小生25歳  母48歳  次弟23歳  3男 18歳  末弟12歳

 

呉羽紡績は2年後の1965年、東洋紡績と合併することになる。周囲の人々がクチにするのは、「東洋紡の人は一流大学出身の秀才ぞろい、呉羽の人は肩身が狭いのじゃない」とのたまうが、冗談じゃない、自分達の上司にはずらり、すごい人達が揃っていた。

 

ナイロン事業の先頭には、Dr松本さん(東大)Dr長井さん(京大)Dr中村さん(京大)の3博士がいて 部長は伊藤さん(京大)、課長は尾関さん(九州大)、係長は国領さん(京大)と石田さん(阪大)、皆さん堂々たる方々ばかり。全く呉羽と東洋紡を比較して、東洋紡の方が秀才ぞろいとは、一度も考えたことはない。何といっても呉羽の社風は、戦後社会を反映して 十大紡では最も進歩的な会社だったと思う。このことは合併後の労組の考え方に はっきりと現れてくる。

 

高槻研究所で僕の仕事は、ナイロン延伸だった。延伸中の走行糸張力を測定することによって、紡糸ノズル直下の冷却挙動が見事に解析出来ることを把握、「テンションの西川」と言われた。次に取り組んだのは、ヒータに接触走行する糸は、どのようにヒータから熱は糸に伝わるかをテーマに幾つかの実験と理論式を組み立て、最終的にヒーター長はどのくらいに設定すべきかを解明した。この知見は、その後、仮撚加工の技術解明にも、随分と役立った。

 

休日は、奈良古寺巡礼に熱中した。高校時代、同じ国文班クラブに所属していた友人伊東大作君が、奈良国立文化財研究所に勤めていたので、いつも彼のおかげで、奈良のお寺はフリーパス。伊東君は登大路の著名なる「日吉館」に下宿していたので、僕も何度か泊めてもらった。夜酒を飲み交わしながらいつも話題になるのは、高校時代 同じクラブにいた美しい彼女のことだった。今頃は幸せになっているのだろうか、そんな話題が酒を益々美味くする。「日吉館」はその後、「あおによし」と題して、NHK連続TVドラマで放映された。

 

独身寮では、時々女子社員を誘って、六甲登山を企画した。芦屋から上って、六甲頂上に至り、有馬に下りる。昼食は、谷川のせせらぎに憩い、フォークソングを歌った。

 

秋、いよいよ敦賀ナイロン工場建設完了、ナイロンメンバー全員が高槻研究所から敦賀工場に転勤した。日産30トンのナイロン重合、紡糸、延伸の新設工場は、敦賀湾に囲まれ、野坂山のふもと、操業開始の日を待っていた。大自然の見事な環境に感動し、早速スクーターを購入、非番の日は、1日中、敦賀の海岸をスクータで走り回った。勿論スケッチブックはいつも手放さなかった。

 

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