1964(昭和39)年  26歳   家族構成 母49歳 次弟24歳 3男19歳 末弟13

 

敦賀ナイロン工場操業開始には、ドイツ・チンマー社から多くの技術者がやってきた。自分は延伸機に設置したHOT−PINの電気調整を任されていたが、ここにもアーヘン工科大学卒業のシュミット技術者が来た。彼は工場内で いつも白衣を着ていたが、これはTHを卒業したというエリートシンボルだった。

 

彼は実に好奇心旺盛な男だった。終業時間がくるといつも一緒に付き合えと誘い出し、敦賀の町を飲み歩き、時には町の銭湯に出かけようと言い出し、銭湯では2人の裸姿をじろじろ見られ恥ずかしかった。休日は京都・奈良へ遠出し、お陰で半年の間に、ドイツ語、英語の会話習得には随分役立った。しかし肝心のHOT―PIN電気調整の方は結局巧くいかず、シュミット技術者は失意の内にドイツへ帰っていった

 

1964年6月5日(金)通産大臣を敦賀に迎え、開場式が挙式された。いよいよ昼夜連続の3交替操業が始まり、自分も3交替副当直長として、交替番制に入った。始業時刻は6時、14時、22時と、4日毎に始業時間は繰り上がり、その都度睡眠時間もひっくり返さねばならず、かなり過酷な労働条件であった。交替制に入った時は65kgもあった体重も、6ヶ月後には58kgにまで痩せてしまい 一時は深刻に心配もしたが、やがてまた体重も回復し、3交替制に身体は慣れていった。

 

女子寮に速見悦子という美人の娘がいて、独身寮の男性達は競って彼女をものにしようと接近した。自分も切れ上がった彼女の目鼻立ちにすっかり参ってしまい、毎夜せっせとラブレーターを書き続けた。時には笑顔で部屋に遊びに来てくれたこともあったが、それ以上に何も発展することもなく、やがて彼女は遠くへお嫁に行ってしまった。

 

3交替生活に入ってから購入したスクーターは、夏の敦賀で大活躍した。休日は東尋坊から永平寺、三方五湖から小浜若狭湾まで、海水パンツとスケッチブックを持参して、夏の景勝地をあちこち遠乗りした。全身真っ黒になり、腕時計を外すとそこだけが白く残った。敦賀の海は水が綺麗で水晶浜と名称の如く、実に海底が透き通って見えた。

 

秋のある日 日記にはこんな話を書いている。「旧国道から、急激な坂道をスクーターで下りて敦賀湾大谷部落に出た。絶壁が切り立った山影にひっそりと息づいている小さな過疎部落。勿論国道からはこんな部落が絶壁下にあろうなど目にもはいらない。貧苦と絶望の毎日を、絶壁にしがみついて生きてきた小さな漁村。その部落一番の一人息子が、突然 新妻を置き去りにして 単身ハワイに蒸発してしまった。新妻は泣く泣く身ごもった女の子を 一人前の娘に育てあげた。戦後娘は教師になり隣町の武生中学校に先生として勤めていたが、やがて母親も亡くなり、娘も定年を迎えたある日、突然ハワイから年老いた父親が帰ってきた。しかし娘は絶対に父親には会わなかった。父親は淋しくハワイに帰っていった。今もこの部落には空き家となっている娘さんの家はほらあそこさと指差す長老の指差す先を見ながら、昔は皆んな貧しかったんだなあと思った

 

敦賀市主催のロシア語講座にもせっせと通った。ロシア語は大して上手くならなかったが、ロシア船が入ってくる度に、講座ではロシア船訪問を繰り返し、時には船員食堂で豪華なロシア料理をご馳走になったこともある。ドイツ語とロシア語、2つの会話習得が当時の大きな学習目標だった。

 

アメリカではベトナム反戦運動が日増しに高まり、中国では革命の英雄毛沢東が文化大革命を始めていた。しかし、革命の内容はどうもはっきりつかめず、一体中国はどうなっているのかイライラするばかりだった。日本ではいずこも「高度経済成長」を謳歌し、新幹線や、名神高速道路が開通し、TVは連日オリンピックを華々しく報道した。

 

12月のある日、上司に呼ばれ、「君は大阪本社ナイロン加工部に転勤してもらうことになった」と命じられた。再びあの千里丘陵独身寮に帰ることが出来る、そう思うと胸高まった。現場の仲間達は心こもった送別会を開いてくれた。嬉しかった。

 

(50年後 2018年(平成30年)追記)
敦賀ナイロン工場が火事で燃えた。M氏に案内してもらって工場焼け跡を見た帰途・敦賀・大谷部落へ再訪した。しかし、50年間に、30軒は残っていた廃屋はすべて森に還っていて、廃屋の痕跡すら見当たらなかった。帰宅後図書館にて敦賀の歴史を詳細に調べた。あの関が原合戦で有名な敗将大谷吉継は、豊臣秀吉から越前国敦賀郡に5万石を与えられ、被差別部落も一緒に敦賀へ連れてきて村落を構えた。大谷部落は大谷吉継にちなんだ江戸時代から残る未解放部落だった。明治維新後「新平民」として部落は解放されたが、部落の青年達は外国移民にこそが自分達を解放する道だと考え次々とアメリカへ移民して行った。島崎藤村「破壊」、瀬川丑松もアメリカ・テキサスへ移民していったことは皆様小説でご存知だと思う。大谷部落の主人公も同じ道を選択しハワイに移民して行ったのだ。貧困の中で主人公は新妻を捨ててハワイに蒸発したのだ。しかし60年後男は老齢化し帰国しても、娘は父親に絶対会うことすら拒絶し男は寂しくハワイへ帰って行った。

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