1965(昭和40)年   27歳    故郷の一家 母50歳 次弟25歳 3男20歳 末男14歳

 

 1965年合繊各社は、激烈な市場競争の時代に入っていた。呉羽紡績は、伊藤忠・丸紅と組んで海外市場拡大戦略を、加工基地建設に置いていた。すでに海外に幾つかの紡績工場を持っているクレハも、合繊に於いても、海外に加工工場を建設しようという長期経営戦略に基づいて、原糸製造部門より、加工部門へ人員配置転換第1号に選出され、自分は敦賀ナイロン工場から大阪本社にカムバックした。

尼崎にあるヘランカ工場には毎朝阪急電車で千里独身寮から通勤した。車中将来必要となるであろうスペイン語の勉強に熱中した。スペイン語はローマ字とよく似ているので、独学とはいえ、6ヶ月後には、作業標準はもうスペイン語で読み書き出来るようになった。


工場での技術習得は、現場実習に重点をおいた。将来海外加工工場技術指導では何もかも自分ひとりで指示出来るようにならねばならず、技術習得に日夜努めた。怖いのは、孤独な学習の中でノイローゼに陥ること。敦賀出発前、親切な上司は、「自己の精神コントロールに常時努めなさい。趣味に通ずること。張り詰めた精神の緊張を解きほぐすには趣味に優るものはない」と忠告してくれた。


休日はスケッチブックを持って、積極的に奈良・京都に出かけ、好きな絵を描いた。奈良国立文化財研究所に勤める高校時代からの友人伊東大作君には随分とお世話になった。

 

当時の給与は、日記によれば28,000円、母への仕送り8,000円 幸いにしてボーナス65,000円が支えとなって、貯金はすでに80,000円を蓄積していた。


大阪本社に勤務して半年、ある日上司から、会社上層部では君を海外駐在員にすることを目下検討中だと耳打ちされた。9月になり、突然上司である部長・課長を差し置いて 一人で東南アジア各国を巡回し技術指導して来いとの社命が下った。

最初の海外出張は約1ヶ月の日程で、台湾、香港、フィリッピンのクレハナイロン原糸輸出先を巡回技術サービスということでひとりで回ってこいというもの。まだ海外出張は社内でも珍しい時代であった。勿論自分にとっても、海外出張など初めての経験だった。

出張に先立ち社長室に挨拶に行った。社長は「ああ、君が今回駐在員になる西川君か。海外では兎に角 商社間の人間関係、特に商権配慮にはくれぐれも気を使い給え」と忠告された。まだ伊丹空港はアメリカ軍事基地の中にあり、小さな木造バラック1階建てだった。日航ジェット機CV880で先ず台北まで飛んだ。伊丹空港には会社上司や、取引商社の人々が大勢見送りに来ていた。初めての機内はファーストクラスだった。台北空港にも、日本商社各支店長がずらりと迎えに来ておられ、恐縮してしまった。タラップを降りてくるのは、入社3年目の若造だったから、支店長達もびっくりされたに違いない。


台湾、フィリッピン、香港の技術指導は、活気ある毎日だった。訪問する各社は全て大陸系華僑経営の工場だったが、華僑の商法は、実に巧妙だ。まず最初に相手に徹底的に誠意を尽くす。ここで顧客はすっかり心を裸にして、商売上手な主人に自分のペースを奪われてしまう。主人はこの時点から満面の笑みを浮かべて商談を始める。顧客は余程相手を見抜く力がないと、完全に主人ペースで商談を進められ、気がついた時には華僑商法に乗せられている。

現場の技術者達も優秀だ。名だたる名門大学を卒業した技術者達は英語も堪能であり、技術データも実に緻密に整理され、こちらに向けての技術質問はいつも核心を突くものばかりだった。当時はまだ世界的に合繊技術開発の途上であり、合繊各社は技術ノウハウは執拗に隠し、外部には漏らさなかった。しかし、彼ら新進気鋭の現場技術者達の質問は常に技術ノウハウに迫る高レベルの質問内容ばかりだった。


夕食は豪華なレストランに招待され、乾杯、乾杯の攻勢が毎晩続き、こちらもすっかりお友達になった気分の時、技術者達は執拗に技術ノウハウ獲得に迫ってきた。まだ日本の観光客は東南アジアのどの国にも見かけなかった。





最後の夜は、九竜サイドが一望出来る 香港ヒルトンスイートルームで旅の疲れを心行くまで癒すことが出来た。

白倉支店長ご招待で「金田中」での夕食時 中国文化大革命なるものとは一体何なのか大きな話題となった。「沢山の遺体が香港海岸にも流れて来るのですよ。遺体は激しい打撲で傷ついています」。支店長の話はあまりにも刺激的だった。

支店長に車でヒルトンホテルまで送られ、部屋に戻り カーテンを開けて、窓の外をじっと見つめる。室内にはBGMが流れ、自分は疲れた身体をソファーに沈め 夕食会での話題を思い返し、考え続けた。

学生時代、自分はマルクス主義の正しさを信じ、一生懸命勉強もしたし、運動にも参加した。しかし今中国で行われている文化大革命なるものは、結局権力闘争ではないか。権力闘争の果てに一体何があるのか。スターリンも、毛沢東も独裁者として多くの人民を苦しめているだけではないのか。我々は、ラジカルこそ正義だと何度も教えられてきた。しかし、今中国で行われている悲劇は、本当にラジカルが正義なのだろうか?

窓から見えるあの山の向こう、大陸で今行われている大きな悲劇は、自分の青春を貫いたマルクス主義への熱い憧れを大きく揺るがせ、嫌悪の情を掻き立てる。「毛沢東は本当に英雄なのか」益々心の中で大きな疑問が広がる。文革話題で消沈した気持ちを切り替え、元気づこうと、肩に重かった背広を脱ぎ、セータに着替え、階下フロントロビーに下り、香港の絵葉書を数枚買ってまたエレベーターで上がってきた。

高校時代 密かに憧れてきた国文班の彼女はもう結婚してしまったのだろうか。自分は大学受験に失敗し、悲しい思い出を胸に秘し 東京を後にして、もう10年、何もかもすべては変わってしまったが、今でも僕のことを覚えてくれているだろうか?。

この10年間、自分は何度 大学受験失敗の過ちに泣いたことか。大学受験失敗の過ちは 自分にとってあまりにも大きすぎ、重すぎた。

彼女を意識し始めたのは高校3年になってからだった。同じクラブ活動、国文班でのことだった。国文班には何でも語りあう自由な雰囲気があった。そんな雰囲気に影響されて 我々は幾つかの手紙を交換し、青春を語りあった。しかし、2人の関係はそれ以上の何ものでもなかった。勿論握手すらしたこともない。思えば 彼女からの手紙には、いつも青春を実感し、文学を教えられた。彼女は本当に理性的で素晴らしい女性だと思った。彼女はいつも自分の意思をはっきり表現し、良家子女特有な上品さを備え、清楚であり、常に前向きの姿勢で向上を志向し、本当に美しい人だと密かに憧れ続けた。

ソファーから立ち上がり、自分は迷わず1枚の絵葉書を東京に向けて投函した。
10年前、自分は貴女達から文学によって人生の素晴らしさを教えられました。今自分は世界の夢、香港にあって、仕事に打ち込む時、何物にもかえられない喜びがあることを知りました。本当に人生って素晴らしいですね
いつの間にか、自分は香港の夜に酔って 涙していた。流れてくる 映画「慕情」のテーマソングは切なかった。

手紙を書き終えた自分は 今日この瞬間を区切りに はっきりと自分の気持ちを切り替えようと決意した。すでにお嫁に行ったであろう高校時代の憧れの彼女を思い出し 自分の大学受験失敗を泣くなんてあまりにも男らしくないではないか。あきらめよう、過去に泣くなんて。

今や自分は闘う獅子に生まれ変わったのだ。

自分にはやるべき仕事がある。自分は今クレハナイロン海外進出を代表して、27歳の若さにして、社運をかけた使命を帯びて、東南アジア各国を技術指導の旅に出ているではないか。これこそ夢のような我が青春だ。

我が青春の幸福に酔い、幸福に微笑し、幸福と触れ合う。
「ああ、人生ってこんなにも素晴らしいものだったのか」


 

 帰国早々の、11月の半ば突然、呉羽紡績と東洋紡績の合併が発表された。多くの社員が動揺した。しかし、自分は内心面白いことになってきたなと喜んだ。

 




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