定年後の読書ノート(硬めの本)
フォイエルバッハと感性の哲学昭和4年生 東大29年卒 宇都宮大教授 藤巻和夫
平成2年 初版 高文堂出版社 2750円1月かかって読書したが理解不充分 1998/4/10
この本を読んでメモすべき個所

いかなる哲学も究極的には人間の問題をその課題とする。ファイエルバッハでは現実的人間学の建設が試みられている。思弁哲学は実際上も、理論上も神を廃棄しようとした。神の本質はフォイエルバッハによれば、人間理性の本質である。しかも、理性は感性も受け入れなければならない。具体的に現実性をおいて哲学を高める。精神から感覚へ、感性の精神からの主体が必要である。現実の土台の上に立つ人間の肯定。人間の本質は感性的なものである。フォイエルバッハは「キリスト教の本質」で神学を人間学に解消する。ギリシャではキリスト教徒は悩みを神聖視し、神を悩むものと規定した。人間はどうすれば罪の悩みから救われるか、それは心情や愛こそが最高で絶対的な力であると自覚すること。抽象的な悟性としての神ではなく、愛としての神は人間としての神である。

フォイエルバッハの努力は、超越的な宗教に現実的な角度から光を与えて、そこにあった神秘的本質を現実的な地盤に移し替える努力であった。祈る時人間は、願いや心情を肯定する。神と人間は同一のものに高まっている。奇跡、無からの創造は実は主体性の原理である。ここでの人間は理性のみならず愛情、感性を持った全人せある。フォイエルバッハでは感性、物質が根本原理である。

フォイエルバッハの思想が究極的に目指したものは、あくまで宗教、神学の批判であった。神学を人間学に解消し、人間が人間にとって神である事を明らかにすることであった。人間は個人で存在するのではなく、類的共同をこの地上に実現することである。現実的人間は類的存在である。

フォイエルバッハが類的人間論を全面的に展開しているのは、「キリスト教の本質」である。類とは人間自らの本質性である。人間は人間一般の本質を問題に出来る。意識は人間の類的能力である。

人間は思考によって、自らと対話する。宗教は無限なるものの意識である。宗教の意識は、人間が類について持つ意識に他ならない。

この論理的な証明。人間はその対象において人間自体を意識するものである。人間が対象を意識することは人間が自らを意識することである。

経験的証明。類の規定の個々人における制限、つまり類の規定は個々人においては制限されているが、そのような制限は単に類の本質に於いて廃業されているだけではなく、類がそれに応じた現存を人間の集められた全体に持っている限り、類の現存においてもまた廃棄されている。

感じたこと。 十分に理解できないが、フォイエルバッハの「キリスト教の本質」を是非読破してみよう。

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