定年後の読書ノート (極めて硬めの本)
ヘーゲル左派と初期マルクス
1930年生 1985年没 一橋大教授 良知
1987 岩波書店 3000
1月間手元に置いて読書したが、理解困難の本
フォイエルバッハのヘーゲル批判 対象化と疎外

「定住をばくろすること」こそ、フォイエルバッハの目的であり、「正しく見ること」こそ、彼の努力であった。

宗教ドグマを歴史的に分析し、人間的な要素へ還元すること。人間は自分の本質を対象化することによって自分の存在を確かめる。自分の類を対象とし、それを無限なものとして意識する。この場合の無限な自己感情が神である。自己意識は人間の自己確認であり、自己肯定であり、自己愛であり、自己の完全性に対するよろこびであった。「フォイエルバッハはヘーゲル弁証法に対してまじめな、批判的な関係をもち、この領域で真の発見を成し遂げた唯一の人間」であるとマルクスによって評価された。

しかしフォイエルバッハは人間の歴史を人間の自己認識の発展と把握し、宗教における人間の自己疎外の止揚を提示し、現実生活の意識の改革を要求した。マルクスは類の本質を構成するものに思惟、意志の力、愛ではなく労働を掲げた。マルクスは人間の類的存在の疎外、外在化、あるいは譲渡としての貨幣の本質を問題としながら、富の主体的本質としての労働と外在化された労働の結果としての私的所有を取り上げる。資本主義社会では、労働は商品を生産するだけではなく、労働自身と商品としての労働者を生産する。

対照的世界の疎外された定住の中で、疎外を破壊し、それを止揚することによって、人間が現実的に対象化する展望がえられる。基軸に観念性を秘めた初期段階のマルクスを、「資本論」のマルクスと同視出来ない。

初期マルクスと 資本論のマルクスは同じではない しばしば耳にする。自分にはどういうことか判らない。しかし、マルクスがヘーゲル哲学から、フォイエルバッハの唯物論を克服して、弁証法的史的唯物論に至る哲学的道程をきちんと理解しないと、資本論を読んでも哲学的内容を把握出来ない。これから資本論を読み始めようと意気込んでいる自分にとって、初期マルクスの人間観と、その後の資本論没頭当時のマルクス人間観の違いを先ず追求していきたい。

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