定年後の読書ノートから

正気の世界。1955年。エーリッヒ・フロム著。世界の名著。中央公論社。

創価大学に勤めるある友人から、「資本論ノートー共産主義への必然性はなかったー」という、刺激的なタイトルの論文1冊を頂いた。この論文の基調になっている、エーリッヒ・フロムについて、自分は何も知らなかったので、彼が1952年出版した「正気の世界」を読み、エーリッヒ・フロムが主張している現代マルクス主義の問題点なるものの一端をまとめた。

マルクスは資本主義から社会主義に経済的変革を遂げることによって、人間の自由化と解放が得られると考えた。マルクスは政治的変革すなわち政治権力の把握と権力集中に関して、近代ブルジョア革命の枠、すなわち政治権力中央集権主義の欠点を見ぬいていなかった故に、ロシアの悲劇が始まった。

マルクスは人間を無力にしている経済的束縛が取り除かれるや否や善性が現れると考えていた。20世紀の人間にとって、マルクスの誤謬を認識する事はたやすい。マルクスは人間の動因を必ずしも利益追求に置いていたわけではないが、人間性の把握について十分ではなかったとフロムは指摘する。

マルクスは、史的唯物論の展開の中で、人間性が独自の法則を持って経済条件と相互作用の関係にあることを、十分には認識していなかった。マルクスは人間の心理学的洞察が欠けていたとフロムは指摘する。

マルクスは人間を疎外する条件を発見するという意図で経済学的分析を始めたが、人間の内部にある非合理的な権力欲、破壊欲を認識しなかった。すなわちマルクスは3つの誤りを犯していると次の如くフロムは指摘する。

1;人間における道徳的要素を無視しているので、新社会体制になったとき、新しい道徳的な構えの必要性に注意を払わなかった。(1952年フロムはすでにスターリン主義を厳しく弾劾している)

2;「よい社会」が直ちに来ると考え、共産主義的権威主義、新野蛮主義の可能性を軽く考えていた(フロムはこの時点で毛沢東の文化大革命ももさることながらカンボジアポルポト政権の大虐殺など知る由がなかったにもかかわらず、よくぞ予言していると敬服する。)

3;生産手段の社会化を必要充分条件と考え、人間について過度の認識不足がある。

私はエーリッヒフロムが、ユダヤ人であり、ナチス迫害の対象者であったことから、全身で神経びりびりと権力の野蛮に対しアンテナ高く生きてきたことを思うと、このアウトサイダー的指摘は必ずしも反共思考とは言い切れないと思う、友人の論文はここで、To have or to be という 作品の存在を引き合いに出して考察を進めている。

これはもうひとつの論文、日本語タイトル「生きるということ」の英文タイトルであり、自分は本日丸善にてこのTo have or to be(紀伊国屋書店発行)を購入してきた。続いてこの本を読んでみよう。

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