定年後の読書ノートより

論語、貝塚茂樹訳注

中公文庫、昭和48年初版、480

黄河文明に何故中国独自の宗教が芽生えなかったのか

この3ヶ月、古典としての論語を毎日少しずつ読んできた。学而編から始まり尭日編で終わるこの膨大な哲学書はまだ当分自分にとって身近な愛読書の一つでありそうだ。

一方では資本論を読み、他方では併行して論語を読む。少々書籍選択に一貫性が足りないのではないかと、時々自問しながら、少しずつ読んできた。貝塚先生の訳注が格調高く、素晴らしい。論語は、再読暗記、声を出して朗読するのを建前としているが、実際文章も短く、文語体であり、響きもよく口唱に最適な書だと思う。昔の人はさらに一句一語を書写して、自己研鑚に努めたそうだが、自分達には、もうそんな素直さは残っていない。

論語にかんして、自分は一つの疑問を持っている。エジプト、チグリス・ユーフラテス文明がマホメットを生み、ギリシャ、ローマ文明がキリストを生み、インダス文明が釈迦を生んだのに、黄河文明は同時代素晴らしい文明を謳歌しながら、何故中国独自の宗教を生むことが出来なかったのだろうか。偉大なる天才孔子翁の論語の世界は何故宗教にまで昇華し得なかったのだろうか。

宗教とは何か。宗教とは、もともと共同体的存在である人間が、現実において相互に疎遠な利己的個人となっていることから生じた人間の疎外態であるとすれば、論語も宗教になり得る資格は充分ある。しかし、論語はどうしてか、聖書にはなり得なかった。論語を読んで先ずこの問題を自分なりに考えてみた。

論語が聖書・仏典になれない理由

論語は哲学書でありながら、抽象性、思弁性、さらには神秘性に欠けているとも言える。あまりにも具体的、散文的、行動的で有りすぎる。しかも現代感覚でいえば、論語はあまりにもドロ臭い。(TQCレポートならば、たちまち講師から誉められるのに)

論語は、長い歴史を通じ、為政者におもねり、為政者に利用され、封建思想の根本を支えてきた。民主主義、個人主義が確立した現代、もう論語は、その役目を終わったのだろうか。いや、終わっていない。 今や為政者自身、特に資本家と言われる為政者は、自分を支えてきた倫理価値感が何時の間にか消失し、自分が立っている土台があまりにも貧弱なことに気づき、目下必死で支配する側の哲学を探し求めている。どうして環境破壊の根元を自分達の宿命悪と決め付けるのか。どうして利潤追求行動がこれほどまでに規制されるのか。社会主義より資本主義の方がずっと人々は豊かなのに、どうして資本主義のマイナス面のみを人々は指摘続けるのか。為政者の自問は、つぶやきではなく、叫びに近い。

為政者にとって自己の正当性をしっかりと支えてくれる、現代に生きる永遠の聖典を是非とも必要としているのだ。 しかし残念ながら論語は時代錯誤な倫理書ではありえても、理屈を飛び越えた聖典にはなりえない。

何故だろう。人間の疎外態である宗教が、宗教たり得ようとするならば、神・仏の前に人々は平等であるというあの欺まん性、我々にとってあまりにもうんざりし過ぎているあの転倒の論理を、論語は残念ながら持ち合わせていない。やはり論語は聖書にはなり得ない。論語は実直し過ぎた。個人と人間共同体間との根本的疎外関係を故意に無視し通している。

論語は個々人と人間共同体間の基本的な矛盾を、対立する矛盾として把握し、この矛盾こそ、将来人々の基本意識を規定していく主要な矛盾であると認識する前に、個々人の側の倫理努力で、この基本矛盾が解決可能だと決め付け、宗教への昇華の道ともなった、そして多くの宗教がこの霧を利用して宗教に昇華して行ったのに、論語では個々人と人間共同体との意識の通い道を霧の中に包みこむ手段を選ばずして出発してしまった。これは宗教へ昇華する貴重な動機を自ら閉ざしてしまったことになる。ここに論語が、聖書とはなり得なかった理由が存在しているのだと思う。

現代における論語を囲む勢力

論語に関する幾つかの本を読んだ。

論語、東北大学教授、金谷 治著、岩波クラシックス

よみがえる論語、 協和銀行会長、色部義明著、徳間書店

孔子家の心、 孔 健 著、双葉ライフ新書

3冊の内で孔家75代直系孔 健氏の生い立ちの記がおもしろい。

中学生時代の孔氏は、文化大革命紅衛兵の最先端に立ち、大いに赤旗を振り、毛沢東語録を振りかざし、天安門広場で毛沢東を仰ぎ、多くの青年達を苦しめた、あの下放の悲劇からも要領良く逃げ切り、両親のコネで荒廃した教育の場での悲惨さ (紅衛兵の先頭に立った彼は、校長を血祭りに上げた。校長を党中央に直訴し、校長の人生を目茶苦茶にした。文化大革命が沈静化したのち、彼は校長から裁判で訴えられた。地方新聞もこのことを大きく取り上げた。しかし、彼は裁判をうやむやにして、校長を泣き寝入りのままにしている。)からも逃げて、大学では日本語を専攻、幾つかのコネの力で政府外郭団体に就職、もうこれからは政治はオサラバとさっさと赤旗は畳み、出世街道を直走り。

多くの人々のそしりを尻目に、中国画報日本総代表の椅子を確保、我こそ孔家直系75代目なりと日本の金持ちにすりより、顔を売り込み、へつらい、挙げ句の果てに故郷、曲阜に錦を飾る。当日は政府高官から回された2台の高級車「赤旗」で、前の1台に自分が乗り、後の1台には、かき集めた貢ぎ物を乗せ、中国には大学出は少ないから、出世は難しくないと平然とのたまう。

75代目曰く、主義で人を律しようとしたマルクスは、倫理で人生を考えた孔子に負けたと。こんな男なら75代目として、論語世界の広報担当者いや孔子思想の体現者として申し分なく、論語の正体を広く確実に人々にPR出来そうだ。

彼がもし誠実な思索者であり、論語の現代性に苦悩する男ででもあったら、どれほど為政者の期待を集め、論語の演出者として彼の登場を喜んだことだろうに。歴史は皮肉なもので、かれは反面教師として論語世界のイメージをますます悪化させている。

されど協和銀行会長色部義明氏は、そんなこととはつゆ知らず、論語の一句一語を熟読吟味して郷愁の境地に到達する。協和銀行会長も、孔家75代目の、かくもひどい俗物ぶりを知ってしまったら、協和銀行会長のひたむきな求道精神も消え失せ、それどころか、自ら本質を見抜けなかった恥ずかしさのため自己嫌悪にさいなまれることになるのではありませんか。

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