定年後の読書ノートから
中野重治の画帳
新潮社、1995年、3800
中川一政のスケッチと対照的な、中野重治の画帳をじっくりと見つめる。かろうじて監獄を脱することは出来たが、作家として筆を執ることも禁止され、苦しみのある夜、我が子卯女の安らかな寝顔を見て、思わず和紙に細筆で描く。

一部のせっかちなグループの他人の作品を攻撃することに情熱を燃やす人々は言うだろう。中川一政や、武者小路実篤がどんなに、人生賛歌を謳っても、それはあくまで、現実に目をつむり勝手な自己陶酔に熱を上げるオメデタキ人に過ぎず、卑しい言葉を使えば、マスターベーションの恍惚に過ぎないと。確かに過激評論家が指摘するごとく、中野重治のモクレンは、はくもくれん(玉蘭)の真実の姿を何処までも追求していく鋭い現実そのもの目であるのに対して、中川一政の薔薇は、自分の夢に過ぎない高ぶった感情そのものである。過激評論家は続けて絶叫する。この薔薇は座り心地の良い椅子に座った一政の恍惚のマスに過ぎないと。

確かに1枚の絵は、描く人の人生観そのものであり、どうすることも出来ない人間の一生そのものかも知れない。

大江健三郎が中野重治の戦中スケッチは、病床の正岡子規に通ずるものがあるともらしたが、きっとその言葉はあの大江光を育て上げた人間の温かさを胸に秘める大江健三郎夫人の言葉ではなかろうかと自分は考えている。スケッチには、その人の人生がある。

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