定年後の読書ノートより

山椒大夫

森鴎外著、現代日本文学館600
何故、山椒大夫なんて題名を付けたのか。ある日ふと疑問に思った。筋書きは有名。

室町時代だろうか、母に連れられた幼い姉と弟、裏日本の漁村で人買いにさらわれる。子供達は丹後の長者に売りとばされ、奴隷として苦しい毎日を送る。やがて姉は、自らを犠牲にして弟を脱走させ、弟は、国守に出世。今は盲となって佐渡の農家で働く年老いた母を自ら探し出し2人は抱き合う。不思議。母の目が開いた。

民衆の心を捉えた母子悲哀伝説。疾風怒涛のドイツ文学を現地に見た森鴎外にとって、苦しむ人間の奥底にある、未来への望みこそ書きたかったテーマに違いない。

しかし、何故か苦しみから当然沸き上がってくる、人間としての怒りの感情がここには描かれて無い。東京帝国大学医学部を卒業, ドイツ留学、帝国陸軍軍医総監の道を歩く鴎外にとって、イキザマはすでに決まっている。森鴎外には超えてはいけない、絶対に超えられない限界がある。

怒る小説は書けないのだ。鴎外には怒りの意識は許されないのだ。

山椒とは散所のこと、口謡遊芸の伝説種本より、筋書きを頂きましたという題意が山椒大夫という判りにくい題名となっている。

書き足したいこと。
水上勉は伝説種本には、丹後の長者を白州に生き埋めにさせ、残酷な息子に竹のこぎりで親の首切りをさせる国守が描かれているのに、 森鴎外は何故これを無視したのかと書いている。さすが森鴎外はきちんと応えている。自分は「情」でもって捉える動的、衝動的なものでなく、 「知」でもって捉える静的、観照的なものこそ大切にする、と。しかし、鴎外が「情」を避け「知」を大切にしたと主張しているのは簡潔な叙述という手法上の意識だけからだろうか。

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