定年後の読書ノートより
「聖家族」批判的批判の批判、マルクス・エンゲルス著、マルエン選集1、新潮社
美しく、深い思索の哲学論文である。

マルクスは、パリにて独仏年誌を発行、哲学から経済学へ猛烈な勉強が始まった。人類の幸せの為に生涯を捧げたいと若きマルクスの情熱は、この「聖家族」に於いて、搾取され貧窮のどん底にあるプロレタリアートの解放、それは思弁的観念論ではなく弁証法的尤物論によって成し遂げると、自己の進むべき方向をエンゲルスと共に明確にした哲学論文である。

3回ぐらい読み返すとやっと少しずつ内容が理解出来てくる難解な長論文だ。こういう論文は出来るだけ自分の言葉で内容を語らねば、結局うそになる。

ブルノー・バウエルへの批判を通して、観念論を論及する。

観念論は実体、一般とは個々の具体的問題のまとめであると位置づけながら、実際には本質から離れて思考の静止をしているとマルクスは指摘する。果物から果物一般をまとめるのは易しい。しかし果物一般から果物を把握するのが難しい。観念論ではそれが出来ない。

私有財産は廃止すべしと抽象的に主張するのは観念論にとっても簡単であろう。しかし私有財産の止揚はプロレタリアートと有産階級の対立を止揚せねばならない。これにはプロレタリアートの疎外の内に反逆の力を読み取り、この力が私有財産の止揚を果たすと、この問題の本質と必然的矛盾を読み取ることが出来る立場に立たなければならない。

観念論ではプロレタリアートを抽象的、神聖化、非人間的把握に終わっている。これでは幾らラジカルであっても、プロレタリアートを救えない。抽象を捨てない限り抽象から抽象の反対物に到達することは出来ない。プロレタリアートは人間であり、資本主義の下で人間的疎外に苦しみ、この疎外解放を人間として勝ち取っていく力はプロレタリアートの人間の中にある。

私有財産を止揚するのは、プロレタリアートの人間疎外が根底にある。観念論はプロレタリアートを抽象的、神聖化、非人間的把握に終わらしめているだけだ。観念論ではプロレタリアートを解放することは出来ない。

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