定年後の読書ノートより

生命学への招待-バイオエクシックスを超えて、森岡正博著、剄草書店、1988年、2370
12章「姥捨山問題」のストーリーを整理し、まとめたい。

「出来るのにしない。すればこれ以上苦しむことになるから」。自分のエゴの悔恨と自責の念。利己行為を正面から見つめた時、煩悶を覚えないほど人間は、利己に徹しきれる動物ではない。

正論は理想化された人間に発せられる倫理的な命令である。しかし私たちは聖人君子のような理想的人間ではない。正論は何を与えてくれるのか。正論の正しさを繰り返すだけではないのか。正論を繰り返し説いても何の解決にもならない。正論は不毛だ。

すべきではない行為を、結局はしてしまう人間を見つめ、その人間の立場に立って、その人間がその人間のままで何をすれば良いかを考えなければならない。自らの行為を見えにくくする最も簡単な仕組みとして、問題状況を決して言語化しないという暗黙のルールの存在、「あうん」の呼吸があげられる。

更に「あうん」の呼吸だけではなく、言説レベルにまで高めたとしても、さらに我々の目をそらす言説システムが用意されている。それは事実に目をとざすのではなく、事実は事実としてその外に、まったく別の視点の、別の問題把握として議論していく、あらたな言説システムが準備されていることだ。

その仕組みは誰がつくったか、それは私自身が作ったのである。私たちは苦しみから目をそらすため、問題を共有化して、社会共通了解ということでうまく自分の目を閉じさせてしまう仕組みがこの社会には準備されているのではなかろうか。

自分を苦しめる事柄から距離をとって、情報から身を遠ざけて、目を閉ざすことによって、良心の苦しみが癒される構造になっている。

いま必要なのは、常に自らの姿を隠そうとする問題に逆らって、私たちの日常生活の隅々に、新しく「発見」しようと試み、「発見」の継続が問題を捉える道ではなかろうか。一人一人が「発見」を積み重ねてゆくことから、問題の本質と「自らを見えにくくする仕組み」の実体が、次第に露わになっていくに違いない。

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