定年後の読書ノートより
「旅と人生」について・井上靖・文芸春秋
たまらなく未知の風物の中に自分を置く時間が欲しくなる。さしたる目的もなく、未知の土地を訪ね、そこの風物に接することに何ともいえぬ楽しさを感ずる。私は自分が若いときに旅行をしなかったことを、いま多少後悔している。もう少し早く旅行の楽しさや面白さを知っていたら、私の人生はいまとはかなり違ったものになっていたことであろうと思う。

旅をすることのよさは、いろいろ挙げられる。未知の自然に接したり、未知の人情風俗の中に入って行ったりして、しかし、旅の効用をただひとつだけあげよと言われたら、私は躊躇なしに、自分を一人にすることができることだと思う。

忙しい日常の生活では決して訪れることのない思いが、旅している者の心にやってくる。こういうことが、じつは人間の生活には大切なことだ。一人になってはじめて人間はものを考える。自由で、とりとめもなく、自分の心に現れたことを追うのである。しかし、旅行記や紀行文が好きだという人もいる。旅の楽しさは、それによって、2倍にも3倍にもふくれ上がる。書斎でお茶をすすりながら、ロンドンにもゆくし、ヒマラヤにも登る。シルクロードもぶらつくし、1世紀前の旅行家になったりも出来る。

以上が井上靖氏の随筆だが、更に時代は進み、現在の知識人にはホームページがある。この世界を自由に使えば、我々の旅の思いはもっともっと広く、深くすることが出来る。一人一人の意欲と工夫によって。

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