定年後の読書ノートから

ユダヤ人問題によせて、マルクス著、1843年、
こういう思弁的哲学書は、実に自分達門外漢には読みにくい。文科系出身者にはこういう本も理解出来るのかもしれないが、自分には何が書いてあるかサッパリ分からない。しかし何か深遠なことが書いてあるらしいことは解る。

こういう時大抵の人がやるのははさみという手法で、解った所だけ、原文から切り出し、やたら引用し、自分の論文の味付けにする。しかし技術レポートで育った自分にはそんな芸当はできない。自分の理解したことだけを自分の言葉で書き残したい。勿論そのためには理解しないと書けないが。しかし著者の主張は、やはり著者の言葉が最適でもあり、はさみを使う人達を殊更に非難することも的を外しているのかも知れない。

市民意識には、歴史的発展がある。脱ぎ捨てたヘビの抜けがらとして、宗教もそのひとつだ。ここで対象としたいのはヘビとヘビの抜け殻の関係である。

近代的市民である人間は所有欲に汚れ、市民の中にある政治的国家意識は、市民の生活から分裂し結局2つは別々の物になっている。政治的国家は、人間の物質的生活に対立する人間の類的生活である。

人間は現実において、天上と地上の2重の生活を営む。天上の生活とは政治的共同体の生活であり、地上の生活とは市民社会の生活、自己本位の活動である。政治的国家は市民に対して、精神主義的にのしかかる。一方人間は市民社会の中で、世俗的な存在だ。人間が類的存在として通用する国家の中では、現実の個人生活を奪われ、非現実的な一般性でみたされる。(戦争で死んでいった学徒動員の手記を読むまでもなく)。

何れにせよ、公共の事柄そのものが、かえって個々人の一般的な事柄になり、政治的機能が個々人の一般的機能となった。国家の観念論の完成は、同時に市民社会の唯物論の完成であった。市民社会の成員である人間が、政治的国家の土台であり前提である。政治的解放は勿論ひとつの大きな進歩である。確かに最後ではないが、政治的解放は、人間的解放であり、同時に、国民からいやがられた国家制度、支配権力を基礎とする古い社会の解放である。(戦争に駆り出される大衆に対する国家側の論理と、自ら革命運動に参加意志決定する市民の市民側の論理、いずれも国家の観念論である)

以上がこの論文の読書メモであるが、自分でもこれでマルクスが言いたいことの一端を把握しているのかどうか、不安である。とにかく、思弁的哲学書は難しい。

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