定年後の読書ノートより
どうしたら幸福になれるか(上・下)、W.H.ウルフ著、周郷博訳、岩波新書
この本は、自分が生涯一番大切にしている座生の書である。現役時代海外出張で、長期間家を空ける際は、必ず鞄の中にしのばせ、ホテルで一人ぼんやりと時間を過ごす折りなど、この本を適当に開いたそのページから、読み込んでいくのが、海外での楽しみな時の過ごし方だった。

著者W.B.ウルフ氏は生涯この1冊しか本は出版していない。1957年ペンギン叢書を飾ったこの1冊はたちまちに世界のベストセラーとなった。

人間如何に生きるべきか、人は常に幸福を求め続ける。著者は難しい哲学や倫理学などは展開しない。著者はごく自然に応える。「幸福はそれを目的にして探し求めるべきものではない。よき生活 ― 一生懸命に生きることから結果として恵まれるものなのだ」と。著者はこの本を、勇気を持って歩いて行こうとしている人々への励ましのカタログとして書いたという。生きることは、大変複雑でわからなくなった時代だ。仕事をするのも辛いことだし、遊ぶのも楽ではない。考えるということも、時には困難なことだし、愛するということでさえ、多くの人にとって、喜びであるよりは苦痛なのだ。著者は、日常生活の中で、か弱い人間という生きものが遭遇するあらゆる問題―「孤立感」や「孤独」、「性」や「抑圧」、「愛」や「結婚」「嫉妬心」、「虚栄心」や「煩悶」、「野心」や「見せかけの優越」や「現実逃避」、「どうしたら上品に年をとれるか」まで−特に生きるという、自分に対し社会に対し責任をとることから逃避する口実としてしばしば使われる「ノイローゼ」について、適切な実例をあげて、いわば説き聞かせてくれる。読者はしばしば、それらの実例が自分のことをいっているのかと思ってぎくりとする反面、救われた思いをする。「まず歩き出すことが何より先だ。勇気と善意という投資をすることから始めよ。その投資をちゃんとしておきさえすれば、幸福というものは複利で増えていくものなのだ」と著者はいう。著者はニューヨークに住む精神医学者であり、残念ながら第2次大戦前に他界した教養と趣味豊かな人だったという。

自分はこの本を、学生時代手にし、学習の日々、就職にも、仕事にも、恋愛にも、結婚にも、度重なる幾つかの身内の不幸にも、その折々の苦悩と動揺の中で再読を繰り返し、その都度教えられ元気づけられ、勇気を取り戻しまた歩き始めた。

過日大学に進んだ息子の下宿部屋本棚にこの本があることを見て、息子も父親が何を指針として、生きてきたか、ちゃんと見ていたなと知って嬉しかった。もう息子とは生きるとはどういうことか、あらためて語り合わずとも理解し合えていると思っている。この本はもう何冊も買って、随分人にもあげてもきた。しかし最近本屋の岩波新書には、この本をあまり見かけなくなってきたのが淋しい。また数冊買っておこう。家中手に届く所、この本があることが自分にとって心休まる空間となる。背表紙を見ただけでこの本に盛り込まれた思想の総てが瞬時に思い出されてくる。小さな1冊の本に過ぎないが自分にいつも大きな勇気と自信を与えてくれる大切な、大切な1冊である。

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