定年後の読書ノートより
職業としての編集者、吉野源三郎著、岩波新書、1989年
中学生時代私は柔道が強く腕力家を自負していたのですが、それが災いして、ある出来事をきっかけにして、クラスの全員が、私と口をきかなくなり、完全にクラスの中で孤立の苦しさを味わい、大変なショックでした。孤独の中で手にしたのは聖書でした。聖書には自分のまったく知らない世界があると知りました。哲学への道と、社会問題への道を模索しながら、一高から東大経済学部に進みましたが、社会科学をやるにしてもまず哲学的な基礎を固めてからやりたいと、文学部哲学科に転じました。

いろいろな思想遍歴をへたのち昭和6年非合法共産党のシンパとして検挙され、軍法会議にかけられ、陸軍刑務所に1年半過ごした。失業3年、作家の山本有三氏に援助され、やがて日本少国民文庫発行の仕事に入り、この文庫に「君たちはどう生きるか」を書いたのです。

昭和12年岩波茂雄さんからのお誘いを頂き、岩波書店に入ることになりました。これを機会にこれまでの求道者みたいな態度をやめて、一個の普通な人間として、だれにも異常な存在とは見られないような生き方で出直すことに決意しました。岩波茂雄さんにはいろいろなことを教わりました。終戦を意気盛んに捉えたのも岩波さんでした。

今思い出して自分がどうにかやってこれたのも、ひとつには自分の哲学的興味が歴史哲学にあった為ではないかと思います。時代の意識や思想に対する影響力において、日本の民衆の利害や安危を自分の中心においてやってきました。編集者の資格は、いつも好奇心が生き生きと躍っていること、精神がものうくたるんではいけないと思います。

公共の幸せを思いながら、いつかはその人々に伝えねばならない真実を伝えようと考えつつ、現場の仕事を黙々とやりぬいていく辛抱がなければならないと思っています。幸せにも、私が生きて眼前に迎えているのは、世界歴史始まって以来、前例もないほど大規模な、壮大な転換でした。どんな書物にも書かれていない歴史の大きな意味が、私の目の前に展開している。これが読みとれないで、なんの歴史哲学があろう、という気持ちが、私の眼を日々の事件に集中させてくれました。

もうひとつはこういう時代に生きている同時代の日本人にとって、この現実をどうとらえたら良いかという問題であって、出版はそれに答えねばならないという考えが、私をはげましてくれました。

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